年間第22主日 マルコ7章1~23節(北村師)

年間22主日 マルコ7章1~23節

今日から再び、マルコ福音書を読んでいきます。この箇所の問題は、人間を苦しめるものはどこから来るのかという問いが根底にあると言えばよいでしょう。ユダヤ教では、聖と汚れを区別することが非常に大切にされてきました。それは、衛生という概念がなかった時代、人々の健康をいかに守るかということを、律法という宗教的な概念を用いて説明しようとしたものだと思われます。それで、律法において、聖なるものと汚れているものをはっきりと区別し、汚れたものを避けることで神に受け入れられると考えられるようになっていきました。結果的に、そのような律法が、ユダヤ人の健康や民族を守ったことは確かです。しかし、同時に、人間の社会のなかに分断を生み出し、差別、区別を宗教的に正当化する危険性も持ち合わせていました。

人間が生きていくときに、老病死は避けることが出来ません。わたしたちが望むと望まざるに関わらず、老病死はわたしたちに訪れます。イエスさまの生きていた時代は現代と違って、ちょっとした病も死と直結しますから、病を誘発するもの、また病をもたらすであろうものを、ユダヤ人たちは細心の注意をもって避けることに努めました。そのために、手を洗うとか、沐浴するとか、食器を洗うこと、寝床を清潔に保つことを、宗教的な規則として行うようになりました。今、これだけ、コロナウイルスの感染が広がる中で、手洗い、うがい、三密を避けることなどは、すべて衛生の基本で、わたしたちは当然のようにそのような対策を講じることが出来ます。しかし、全世界では、今でも清潔な水で手洗い、うがい、歯磨き、洗濯、入浴し、またバランスの良い食事を取り、家を清潔に保つために掃除をし、充分な睡眠がとれる環境を整えることが出来ない人たちがたくさんいるということです。そのような、基本的な生活を整えられないということは、即、病、死と直結していきます。世界的に見ても、わたしたちの生活は、非常に高い質が保たれているのです。

しかし、非常に難しい問題として、今のコロナウイルスの感染拡大によって、もはや自分の国や地域のことだけを考えているのでは世界を守ることはできないことに気づいていながら、主要先進国での医療資源やワクチンの買い占めが行われているということです。そして、貧しい国々では、充分な衛生指導、医療資源を確保することが出来ないことにより、より深刻な感染拡大が起こり、西側世界との分断が問題になっています。もともとイスラエルの民を壮健に保つために与えられた律法が、人々を助けるのではなく、分断を生み出していったというのが今日の聖書箇所の根底にあった問題です。つまり、民を壮健に保つために与えられた律法でしたが、その規則を守ることが出来た人たちというのは、いわゆるG7のように、ある程度、生活の質が保障されている人たちでした。多くの民衆は、守れなかったというより、貧困という問題を抱えていた人たちで、その規則を守ることが出来ませんでした。ある人たちは、その規則を守るために、自分たちができない仕事や様々な作業を、他の人たちに担わせていたというのが当時の状況でした。例えば、安息日で労働は禁じられています。しかし、羊たちは、今日は安息日だからと言って、食事をしないわけではありません。そうすると、羊飼いという仕事は、誰かがしなければなりませんから、貧しい人たちを雇うわけです。そして、彼らに羊の世話をさせました。それで、彼らは安息日を守ることが出来ない人たちだと言って、区別し、差別し見下すようになります。そして、彼らを汚れたものをみなし、彼らと接触することはありませんでした。

そのような、聖と俗を分けて考える二元論的な発想は、人々の間に分断をもたらします。そして、聖の側にいる人たちは、俗の側にいる人たち、またそこで取り扱われるものを汚れとみなし、接触することを避け、汚れは自分の外側からくるという単純な考え方をするようになっていました。このことは、わたしたちとて例外ではありません。わたしたちは、悪いものや自分に都合のよくないものは外からくるというふうに考えがちです。あの人のせいで、あの病気のせいで、あの人さえいなければ、あの出来事さえなければというふうに考えます。もちろん、わたしたちの外側からくるいろいろな難しい状況もあることは確かです。確かに、病気はわたしに都合を聞いてくれませんし、事故にあうとき、事故にあってもいいかどうかわたしに相談してくれません。コロナもそうです。老病死は、わたしが年をとってもいいか、病気になってもいいか、死んでもいいか、相談してくれません。わたしが望む望まないに関わらず、オートマチックにわたしのところにやって来て、そのことからわたしは影響を受けてしまいます。つまり、わたしたちが生命体として生きていくうえで、そのようなことを、完全に避けることはできないということです。そう考えていくと、自分の外に汚れがあって、それがわたしを汚しているとか、苦しめているという単純な考え方は成り立たなくなります。そうすると、いかにわたしたちがそのような状況と対峙していくかということが問題になってくるわけです。ですから、自分の抱えている状況や現状に対して、原因や理由を自分の外に求めるだけでは-もちろん原因や理由が自分の外にある場合、それを取り除くことが出来れば一番いいのですが-、取り除けないものもありますし、取り返すことが出来ないものがほとんどです。もし、原因や理由が分かったとしても、それでは、その後どう動いていくかということだと思います。つまり、その状況をどのように捉えていくかはわたしたち次第であるということです。

そのことを、イエスさまは「外から人のからだに入るもので人を汚すものは何もなく、人のなかから出てくるものが、人を汚すのである」と言われました。聖と俗、善と悪というふうな二元論的な考え方をしていると、悪いものは自分の外にあって、それをできる限り避けるという発想が出てきます。実はそれが、人間のなかから悪い思いを生み出し、分断、差別、暴力を生み出していきます。人間は基本的に分けて考えるのが大好きです。分けることによって、分かると単純に考えるからです。カトリック教会もこの考え方が大好きです。しかし、人間の世界は、完全な善もないし、完全な悪もありません。これは、犯罪を肯定しているわけではありません。しかし、わたしたちはいつどのようにして、自分が望まないのにも関わらず、加害者の側に回ってしまうか分からないのです。キリスト教では、人間の自由意志を強調しますから、善と悪をきっちりと分けで考えようとします。だから、わたしの意志ということを強調し、わたしが悪いか、悪くないかで判断しようとします。しかし、そのような発想は、簡単に区別、差別を生み出し、それが、他の人への関わり方にも及んでいくとき、人を判断し、人を裁くという暴力が当然のように行われていくようになります。

「熱が出る」ということを、英語では “I have a fever”、「わたしは熱をもつ」と言いますが、日本の文化圏においては、「熱が出る」と言います。つまり、わたしが、望んだのではなく、不可抗力によって、「わたしに熱がやって来てとどまっている」という言い方をします。これは、ヘブライ語にも同じような言い方があります。そこでは、わたしが主語になりません。つまり、わたしたちが生きていくうえで、わたしたちの計画や予定通りにいかないことが大半で、それを通して、自分の限界や弱さ、無力さを自覚する。しかし、もっと大きな力でわたしたちは、生かされ、動かされ、計らわれていることにも気づく。これが神、イエスさまとの出会いに繋がっていくということだと思います。そこで、わたしたちは、自分の計画や予定通りにいかないことを、他人のせいにしたり、出来事のせいにしたりするだけでは、恨み、つらみ、憎しみのループから抜け出すことは出来ないということだと思います。結局、人間の間に分断、分裂を引き起こし、憎しみの連鎖が続いていく、そのことをイエスさまはよく分かっておられました。イエスさまはこの人間の抱えている業を見抜き、もっと大きなものに自らを委ねることによって断ち切ろうとされたのだと思います。それが、イエスさまが十字架という人生最大の不条理な現実に対して、対峙していかれたということだと思います。今、わたしたちはコロナ禍のなかにいますが、これは、神さまから、わたしたち人間への呼びかけであるということが出来ると思います。さて、わたしたちはイエスさまにどのように答えていくのでしょうか。

2021年08月28日