年間第27主日 マタイ21章33~43節(北村師)

年間第27主日 マタイ21章33~43節

今日の聖書の箇所は、イエスさまがエルサレムの都に入城をし、その後、エルサレムでの神殿で説教される箇所です。イエスさまがガリラヤでの宣教に終止符を打ち、エルサレムを目指した時点で、イエスさまは自分の運命を予感していたと思われます。そのイエスさまの予感は、エルサレムへ向かう旅の途中での3回の受難の予告として描かれています。イエスさまは、今日の箇所をたとえとして語られますが、これは神の国についてのたとえではなく、イエスさまの身に起こる出来事をたとえたものです。ですから、これを聞いた祭司長や民の長老たちは、ぶどう園の主人は神さま、ぶどう園に送られた僕たちは旧約の預言者、殺人を行う農夫たちは自分たちのこと、ひとり息子はイエスさまであることに容易に気付いたことでしょう。実際、祭司長や民の長老たちは、イエスさまを捕らえようとします。さらに、マルコ、ルカで息子は、愛する一人息子である言われていますから、この息子がイエスさまであることが分かります。

この個所を、昔、教会学校では話していた時のことを思い出します。ある子どもが、次のように言いました。「このお父さんはずるい。自分の子が酷い目にあわされるかを分かっているのに、自分の子どもを行かせるなんて」と。なるほど、子どもの目は鋭いなと思ったことを思い出します。確かに、自分の子が酷い目にあわされることを知りながら、わざわざ子どもを行かせる親はありません。わたしたちは、頭で理解していますから、このたとえ話を聞いてもさっと読み流してしまいがちです。しかし、子どもは、わたしたち大人のような、知識とかいろいろな前提がないので、素直に受け取っていきます。

そこで、今日は神さま、イエスさまの思いが何かをさらに黙想していきたいと思います。この箇所を聖書学的に説明すると、ユダヤの文化圏においては、長男が父親のすべての財産を受け継ぐ権利があり、父親にとって長男は自分の全てであり、とても大切な存在である。だからこそ、自分の息子を行かせたのだとして、神の愛を説明することは出来ます。また、ぶどう園の主人は、農夫たちのことを知りながらも、最後の最後まで信頼されたことを、神の人類への信頼として説明することも出来るでしょう。

しかし、むしろそのように考えるより、神の愛、イエスさまの愛の特質から、今日の箇所を味わっていくことが出来ると思います。イエスさまの愛は、わたしたちが考えつくような人間の愛とは根本的に違います。聖書の中ではこの愛を、夫婦や親子の愛で説明しようという試みがなされてきました。しかし、はっきり押さえておかなければならないことは、イエスさまの愛と人間の愛は根本的に違うということです。仏教ではキリスト教で言う愛を慈悲といい、人間の愛を小悲と言い、仏の愛を大悲としてはっきり区別しています。人間の愛は、どこまでいっても限界がある愛だと言われます。つまり、相手のことをどれだけ思っていても、愛していても、相手の苦しみ、悲しみ、痛みを誰かが代われるもではありません。親が我が子と代わってやりたいと思ってもできない。本人が自分の苦しみ、痛み、病を引き受けていくしかないのです。ですから人間の愛は、小悲と言われるのです。しかし、神の愛、イエスさまの愛は、自分の身を相手に無条件に無償で与え尽くす愛、与えることきりしかできない愛なのです。つまり、相手の苦しみ、痛み、病を我が身に引き受け、自分の苦しみ、痛み、病とされる愛であるといえるでしょう。イエスさまはその愛ゆえに、神さまであるのにも関わらず、無に等しいものとなり、人間となられました。それも人間として最も、か弱い自分では何もできない赤ちゃんになられました。それは神さまが、人間のすべてを引き受けるという人類ひとり一人への愛ゆえでした。そして、人間のすべての罪、痛み、悲しみ、病、そして死さえも、自分のものとして背負っていかれました。それは、単なるイエスさまがわたしの身代わりになられたという程度のことではなく、決して誰も代わることができない「わたし自身」となられたということなのです。それがイエスさまの生涯であり、生涯の終着駅である十字架ということです。

キリスト教では、イエスさまの死をわたしたち人類の身代わりになられた、というふうに説明されますが、真実はもっと深い現実、神秘なのです。神ご自身が、わたしとなって、痛み、苦しみ、そして死なれたということなのです。そして、そのイエスさまの思いが、いつの時代のどこにいる人にも現実のものとなるために、死から復活されたのです。イエスさまは、そのような思いを、今日のぶどう園の主人のたとえをもって話そうとされましたが、たとえで話しきれるようなものではないのです。主人は息子であり、息子は主人そのものです。たとえ、わが身は滅ぼされようとも構わない。それが神であるイエスさまの思いだったのでしょう。そのイエスさまの愛の深みにまでわたしたちが入っていけるように祈りましょう。

2020年09月26日