年間第16主日 マルコ6章30~34節(北村師)

年間第16主日 マルコ6章30~34節

先週の福音では、イエスさまによる弟子たちの派遣について述べられていましたが、今日は、その弟子たちの帰還と新たな働きが描かれています。イエスさまのもとから遣わされた弟子たちは、またイエスさまのところへ帰ってきます。このイエスさまから遣わされ、イエスさまのところへ帰ってくるという一連の動きのなかに、弟子たちの根本的なあり方が示されているように思います。弟子たちの帰還は、イエスさまのもとに戻るためであり、そして「人里離れたところで、しばらく休む」ため、つまり「イエスさまのそばにいるため」です。体を休めるということもありますが、イエスさまとともにいるという人間本来のあり方に立ち戻るための帰還であるといえるでしょう。それは、大海原に出て行った舟が、航海を終えて、港に帰って来るのと似ています。その港が、イエスさまとして描かれていると言えばいいでしょう。こうした動きが、わたしたちの人生におけるすべての周期を表しているのではないでしょうか。神から出て、神のもとに帰っていくわたしたちの夫々の一生、わたしたちが親元から離れ、また親のところへ帰省すること、家から働きに出て、また家に帰ってくること、主日の礼拝に集まり、夫々の生活の場に派遣され、また主日の礼拝に帰ってくること、一日の生活の始まりにあたって祈り、活動に赴き、また祈りの場へと帰ってくることなど、すべての動きの基本が描かれています。

港に停泊する舟は安全ですが、港に停泊するために舟が、作られたわけではありません。舟は、大海原へ、新しい世界へ出て行くために作られています。しかし、必ず、港へと帰って来て、帆を休めて、また新しい航海に向けて英気を養わなければなりません。今日の福音では、舟が港から出て、また港へと帰ってくることの重要性が描かれているといったらよいでしょう。それは、先週でも強調したように、福音宣教において、わたしたちが、イエスさまとともにいること、留まることが大前提になるからです。

教会では長らく、祈りと宣教、観想と活動を対立したものとして捉えてきたように思います。いわゆる、活動の生活より、祈りの生活や観想生活の方が上で、それが出来ない人が、活動の生活をするんだというような間違った考え方です。また、それに対抗するかのように、祈りの生活を軽視し、活動中心のあり方を唱える人もいます。そのような考え方は、活動生活と観想生活、信徒と司祭・修道者、キリスト者と未信者(あえて未信者と書きましたが、未だ信者でないという極めて上から目線の言い方ですが)というような区別を無意識的にしてきたように思います。しかし、それは大きな間違いであり、キリスト者だけでなくすべての人間の営みは、例外なくイエスさまとの関りのうちにあるからです。イエスさまとの親しい関り自体が、「祈り」であるわけですから、本来、祈りと活動を対立させるということはあり得ないのです。しかし、加えて、もうひとつの難しさがあります。キリスト教、特にカトリック教会での祈りと言えば、ミサ、教会の祈り、祈祷書の朝晩の祈り、ロザリオや十字架の祈りを思い描く人がほとんどだと思います。それらに共通していえることは、すべて祈りの文句が決まっているということです。ですから、カトリック教会で祈りと言えば、決まった祈りを唱えたり、中央協議会からくる祈りのカードを唱えることだと思っている方が大半ではないでしょうか。しかし、祈りは、イエスさまとの親しい友情の交換、絆そのものであるとするならば、わたしたちが親友と決まった言葉でしか話さなかったり、朝晩しか話さないとしたら、随分変なことではないでしょうか。それに親友との間柄であれば、恐れ畏まったものではなく、もっと自由なものではないでしょうか。イエスさまは、最後の晩餐の席で、「わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである(ヨハネ15:15)」と言われたのですから、文字通り、わたしたちはイエスさまの親しい友となっています。親友であれば、どのようにして相手との心の交わり、絆を深めていくか、どのようにすれば相手が喜ばせるかを考えます。また、愛する人は、自然と相手のことを思うものです。お母さんが、幼稚園に行っている子どものことを、絶えず心にかけているのと同じではないでしょうか。祈りと活動を分けて考えること自体、家にいるときは我が子で、幼稚園に行っているときは他所の子だと言っているようなものなのです。そのようなこと自体、あり得ないことなのです。幼稚園に行っているときも、お母さんは子どものことを絶えず心にかけています。また、子どもも元気で幼稚園で遊ぶことが出来るのは、家にはお母さんがいて、自分の帰りを待ってくれているという、お母さんとの強い絆があるからに他なりません。わたしたちにとっても、このようにイエスさまと絆を深めること、またその絆そのものが祈りなのですから、そこには色んな形や方法があるはずです。それを、教会は広い意味で、「祈り」と言ってきました。ですから、ことばの決まった祈りは、古くから声祷とか、口祷と言われ、その中にミサや教会の祈り、祈祷書の祈りや信心業も含まれます。いわゆる祈りの文句が、決まった祈りです。しかし、決まった言葉だけで話しているなら、ロボットと話すようなもので、人間同士の友情も深まらないように、イエスさまとの友情も深まりません。そのためには、もっと自由な祈り、相手を思う祈りが必要となってきます。その祈りが、黙想とか心の祈りと言われてきました。一日ちょっとした時間でいいので、何にも余計な事はしないで、イエスさまのことだけを思って時間を過ごすことが、わたしたちとイエスさまとの関りを生き生きとしたものにしていきます。そもそも祈りは、イエスさまとの親しい関りですから、その関りを生き生きさせ、文句の決まった祈りにいのちを吹き込むためには、イエスさまとの心と心の交流が不可欠になります。その交流を黙想とか念祷、心の祈りとか観想と言っています。そして、イエスさまとの絆、関りが深まっていけば、その時間を一日10分、20分、30分と広げていくことが出来、お母さんが幼稚園に行っている子供のことを常に心にかけているように、わたしたちも絶えずイエスさまのことを心にかけていることが出来るようになります。そのとき、わたしたちの中で祈りと活動がひとつになっていきます。

そうすると、イエスさまの心が自然と分かってくるわけですから、イエスさまの望みに直ぐに応えたくなるのです。今日の福音で、イエスさまと弟子たちは、休もうと思って出かけたけれども、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた」とあるように、次、何をしなければならないかが知らされてくるということなのです。ですから、どれだけイエスさまとの友情が深まっているかによって、その人の活動の質が決まってくると言えるでしょう。ときどき、「わたしの活動は祈りです」という人がいますが、それは、ただ、やみくもに活動して、仕事や奉仕に没頭している場合が大半ではないでしょうか。そうではなく、イエスさまとの親しい関りのうちにわたしたちが入れられていくとき、自分がしなければならないことが、自然に知らされてくるのだと言うことなのです。イエスさまとの親しい関りのなかから、イエスさまの視点から出てきたものでない限り、その活動は、どうしても独善的になり、自己中心的なものになっていきます。キリスト教は、隣人愛を教えているから活動し、奉仕ししましょう、ではどうにもならないのです。長い教会の歴史の中で、祈りは司祭・修道者に任せて、活動は信徒がする、また司祭も修道会の司祭は祈りをして、教区司祭は活動をする、というような誤ったイメージが作り上げられてきました。しかし、それは、まったくの間違いで、すべてのキリスト者は、信徒・修道者・司祭の区別なく、すべて夫々の生活の場において、イエスさまとの親しい友情を生きるように呼ばれているのです。イエスさまとの親しい友情から力を汲み取り、日々の生活、活動の質を高めていくことで、わたしたちは真のキリストの友、すべての人の友となることが出来るのです。わたしたちのすべきことは、すべての人類がイエスさまとの交わりに入れられていることを証しすることにあるのですから。イエスさまが、「大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始めた」のは、イエスさま自身が、祈りの生活を生きておられ、自分の心に絶えず聞き、何をしなければならないかを直感的に受け取っておられたからに他なりません。わたしたちの生き方や活動が、やみくもに走り回ることとならないためにも、「イエスさまのそばにいる」という基本に絶えず立ち返りたいものです

2021年07月14日