年間第17主日 ヨハネ6章1~15節(北村師)

年間第17主日 ヨハネ6章1~15節

今日の福音は、イエスさまによるパンの増やしの奇跡が朗読されます。わたしたちは、このような箇所を読むと、イエスさまがどのようにパンを増やされたのだろうかとか、実は皆がパンをもっていたのだけれど、隠していて、ひとりの少年が自分のパンを差し出したのを見て、大人たちは恥ずかしくなって、自分たちのもっているパンを分け合って、お腹いっぱいになったのだとかいう説明をする人もいます。このような、人間的な説明も、イエスさまがパンを増やされたことを文字通りの奇跡とする原理主義的な説明も、あまり意味がありません。ヨハネ福音書6章は、明らかに初代教会で行われていた、「感謝の祭儀」についての解説だと言えるでしょう。実際、ヨハネ福音書では、最後の晩餐での聖体の制定の箇所は省かれ、洗足の話しになっています。そのことによって、教会のなかで定着しつつあった感謝の祭儀を、唯の儀式として捉えるのではなく、死と復活によるイエスさまの生き様そのものとして捉えていくという意図があったのではないかと思います。

コロナウイルスの感染拡大によって、活動や生活形式が制限され、多くの教会でミサも中止されました。感染拡大がある程度収まると、わたしたちは、本能的に以前の日常生活に戻ろうとします。感謝の祭儀についても同じように、再開されると、以前のミサの理解に戻ろうとします。しかし、コロナウイルスの感染拡大で、わたしたちが気づかされたことは、今まで、わたしたちは、ミサを感謝の祭儀として祝うというより、聖体祭儀と聖体拝領の式として捉え、自分の生き方と切りはなされた、ありがたい儀式に参加して、唯ご聖体を拝んで頂いて帰ってくることに充足していたのではないかということです。しかし、コロナウイルスのパンデミックを体験した今、以前の状態がおかしかったのであれば、元に戻るという意識をまず改めなければならないのではないでしょうか。人間は誰でも、新しい人と出会ったり、新しい出来事を体験したりすれと、その以前の自分に戻ることは出来ません。例えば、癌を告知された人は、もう以前の自分に戻ることは不可能です。癌と向き合って、自分の病、死を見つめて生きていかなければなりません。パンデミックを体験した教会は、今までの旧態依然とした教会に戻るという過ちを犯さないようにしたいものです。今日から、5週間に亘って、ヨハネ福音書6章が読まれていきます。それは、ヨハネ共同体における、感謝の祭儀についてのカテケージスとなっています。その目的は、内に閉じこもりがちであったヨハネ共同体の課題に応えようとするものであり、今、わたしたちが直面している課題と同じだと思います。そこで、改めて、教会共同体における真の感謝の祭儀のあり方はどのようなものか、という視点に立って見ていきたいと思います。

まず、今日のパンの増やしの奇跡が行われる背景について、見ていきたいと思います。イエスさまは、先ず、「目を天にあげ、大勢の群衆が自分の方に近づいてくるのを見」、空腹に耐えかねている人々をご覧になります。この一連のイエスさまの動作は、旧約聖書の出エジプト記の中で、神さまが、エジプトで強制労働を強いられ、虐待されているイスラエルの人々の苦しみを見られる姿を彷彿とさせます。「主は言われた。『わたしは、エジプトにおけるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者の前で叫ぶ声と聞いて、その痛みを確かに知った。それで、わたしはくだって行って、わたしの民をエジプトから救い出す』(出3:7~8)」。イエスさまの眼差しは、「この人たちに食べさせるためには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われるように、目の前の人々の現実に向けられています。イエスさまは、自分を求めてやってくる群衆をどのように養えばよいか、どのように関わればよいかということに心が向けられています。イエスさまは、今、彼らに必要なことは何かを感じ取って、それに応えようとされます。全人類は、根本的には心の深みにおいて、真のいのちの糧、いのちのことば、永遠のいのちを求めています。しかし、今、イエスさまは、自分を求めてやってくる人々に必要なことは、そうではないことを知っておられます。その日の食べ物にも事欠き、飢えに苦しみ、病に苦しめられている人々にとって、教会が言うような綺麗ごとを話しても、それを受け入れる余裕はありません。イエスさまは、先ず目の前にいる彼らの具体的な必要に応えようとされます。それは、お腹がいっぱいになり、病が癒され、悪霊から解放されることです。つまり、イエスさまがパンの増やしの奇跡をおこなわれる動機は、まず人々の具体的な苦しみ、飢え渇きに応えるということでした。感謝の祭儀も同じです。一部の救われたと思っている人々の閉鎖的なミサ、感謝の祭儀などあり得ないということです。ヨハネ共同体の問題のひとつは、それでした。感謝の祭儀は、すべての人に、特に苦しむ人、貧しい人々に無関心ではあり得ないということだと思います。もちろん、単純に門扉を開くという意味ではなく、共同体の姿勢、あり方の問題です。

それでは、イエスさまはどのように人々の望みに応えていかれたのでしょうか。いわゆる神さまとして、皆があっと驚くような奇跡を行うことで人の注目を集めることでしょうか。そうではありません。一人の少年がもっていた、まったく何の役も立たないような、ごくわずかな5つのパンと2匹の魚からすべてが始まります。それでは、このまったく、役に立たないような、誰もが相手にしない、つつましい、ささやかなものとは何でしょうか。それは、わたしたち自身のことではないでしょうか。誰も振り向きもせず、誰も注目もしないような、ささやかなわたしたちの人生ではないでしょうか。ここにも、イエスさまの人間を見るときの視点が現れているように思います。イエスさまは、わたしたちのささやかな、何の訳にも立たないようなものを使って、すべての人を満たす業を行おうとされます。感謝の祭儀の中で供えられるパンも、薄っぺらな、何の変哲もないウエハースです。それは、まさにわたしたちの人生をあらわすものなのです。そのウエハースが、わたしたちを一杯に満たすとは到底信じがたいことです。しかし、イエスさまの手に渡されるとき、それはわたしたちのいのちの糧となることをわたしたちは知っています。そのためには、わたしたちが、夫々の人生を、イエスさまの手にお渡ししなければなりません。わたしたちは、見栄えの良いもの、立派なものをイエスさまにお渡ししなければならないと思うかもしれません。しかし、イエスさまが望んでおられるものは、わたしたちのささやかな夫々の人生です。自分の弱さや限界、失敗や挫折もすべてです。それが何であったとしても、イエスさまの手に渡れば、すべての人を満たす豊かな恵みの源となるのです。イエスさまは、さらに踏み込んでわたしに言われます。「あなたは、まだわたしに渡していないものがある…あなたの罪をわたしにください」と言われます。イエスさまは、わたしたちの罪のために死なれたのではなかったでしょうか。それなのに、なぜ、わたしたちはイエスさまの前で、格好をつけ、見栄を張るのでしょうか。ミサは、イエスさまがそうであったように、ありのままのわたしを差し出すことなのです。

今日の福音は、格好のよい、手柄を立てたわたしたちではなく、わたしたちのつつましい普通の人生、わたしたちの弱さや限界、失敗や挫折、そして罪をも、わたしたちがイエスさまの手にお渡しすれば、それをイエスさまは受け取り、感謝の祈りを捧げて、すべての人のための恵みの源としてくださる、ということをわたしたちに告げています。そのようなわたしたちのつつましい、ある時にはうんざりとするような毎日、その生活を離れて、感謝の祭儀はあり得ないということでしょう。わたしたちの感謝の祭儀が、一時の現実逃避であったり、罪から清められるための手段であったり、荘厳な形だけの儀式であったり、安心を得るための精神安定剤であったり、自己実現の場となったりしていないでしょうか。わたしたちのつつましい、愚かな、罪にまみれた毎日こそが、わたしたちが生きる生活の場であり、イエスさまはご自分の死と復活によって、そのようなわたしたちすべてを包み込んでおられるのです。その真実に目が開かれるとき、わたしたちのうちに自ずと感謝が生まれてきます。ですから、ミサは、自然と感謝の祭儀となっていくのです。一部の救われたエリートのための、自己目的化した集会などではあり得ないのです。

2021年07月24日