年間第24主日 マルコ8章27~35節(北村師)

年間第24主日 マルコ8章27~35節

今日の箇所は、マルコ福音書における大きな分岐点にあたる箇所が朗読されます。イエスさまは、故郷のガリラヤで、病人をいやし、罪人にゆるしをもたらし、貧しい人々に神の国の福音を積極的に述べ伝えてこられました。しかし、イエスさまが直面されたのは、ファリサイ派の人々の無理解、身内や故郷の人々の無理解、そして、弟子たちの無理解でした。そして、イエスさまの孤独感は高まり、宣教活動にも陰りが見えてきます。そのような状況の中で、ヨルダン川の源流の北限の地であるフィリポ・カイザリアに行かれます。どのような思いで、フィリポ・カイザリアに行かれたのでしょうか。

イエスさまがガリラヤでの宣教で直面したには、人々の反対と熱狂、そして熱狂している人々のうちに見られる勘違いと無理解でした。人間は皆自己中心なもので、自分の思いや願いをかなえられることを最優先にします。そして、多くの宗教は人間の思いをかなえるという形で人を誘導し、むしろ人間を迷いの方向に導き、人間本来の姿を見えなくさせてしまうことがあります。入信したけれど、自分の思いがかなわないとき、信仰が足らないとか、努力が足らないと言われ、また言われた方も、やはりこの信心は間違っていたのではないかと考える、そんな話が巷には溢れています。イエスさまが感じられたことは、自分が教えれば教えるほど、奇跡を行えば行うほど、むしろ人々を迷わせてしまっているのではないかという疑念、自己嫌悪だったのかもしれません。そこで、イエスさまは、ガリラヤでの宣教活動とそのあり方を祈りのうちに内省し、ユダヤ教の中心であるエルサレムへ行くことを考え始められるというのが、今日の箇所であると思います。

そこで、先ず弟子たちに、「人々は、わたしのこと何者だと言っているか」とお尋ねになります。弟子たちは夫々、皆がこう言っていますと答えます。さらに、イエスさまは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」とお尋ねになります。ペトロが弟子たちを代表して、「あなたは、メシアです」と答えます。そして、イエスさまは、そのことを誰にも言わないように弟子たちを戒められます。ペトロの答えは、学校の試験としては正解です。しかし、イエスさまが問われたのは、「あなたがたにとって、わたしは何か」と問われたのであって、教義的に正しい答えを求められたのはなかったのです。「あなたにとって、わたしは何なんですか」と問いかける妻に対して、「あなたは、わたしの妻です」と答える夫はいないでしょう。ペトロは、教会学校の生徒としては合格でしょうが、人間としてはどうなのか、ということになるのではないでしょうか。そのペトロは、イエスさまがご自分の受難を予告されることによって、化けの皮がはがされるというか、先鋭化していきます。しかし、イエスさまの試験に及第したと思って自信をつけたペトロは、イエスさまがメシアとしての真実の姿を話されると、イエスさまを諫めるという暴挙に出ます。これに対して、ペトロは、イエスさまから、「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と厳しく叱られてしまいます。単純な人間であったペトロにとっては、何がなんだか分からなかったことでしょう。ペトロは12使徒のリーダー、初代の教皇と言われた人物です。しかし、彼は、唯の凡庸な人間に過ぎませんでした。ペトロにすれば、自分の信頼する先生は、イスラエルのメシア、救い主で、エルサレムで華々しく活躍して、ローマを制圧し、政権をとる素晴らしいリーダーでしかありません。それは、当時のユダヤの状況の中では、まったくの正解で、メシアとしての王道の考え方でした。ガリラヤの人たちもそのようなリーダーとして、イエスさまを期待していました。イエスさまは、ガリラヤの人々のこうした無理解に直面し、エルサレムに向かわれるわけです。弟子たちを含む人々の無理解は何も変わっていません。弟子たちは、相変わらず、イエスさまがメシアとしての王道をいくことを望んでいます。

ここでの問題は、ペトロをはじめとする人々が自分たちにとって都合のよい考え方、それを正義とし、そのことに何の疑いも問いかけもないというあり方です。まさに、わたしはあなたにとって何なんですかと問う妻に対して、あなたはわたしの妻ですと答える愚かな夫のようなものです。イエスとは誰か、人間とは何かといったもっとも根源的な問いに対して、教科書的な正解をもってきて、それでよしとしている愚かさにさえ気づかない、その無知が問題なのだと思います。

今、わたしたち人類は、コロナウイルスという未曾有の問いかけをされています。今まで、人間中心、資本主義による利益中心で生きてきた人類そのものへ、あり方が問われているのだと言えるでしょう。その問いかけは、教会にも届いているのです。それなのに、コロナ禍の中で、ミサを行うか中止するか、そのことだけにしか思いが至らないというのはどういうことでしょうか。あまりにも、浅はかなわたしたちの姿が露呈されているように思います。ミサとは何か、共同体とは何か、生きるとは何か、なぜ生きるのか、死とは何か、人間とは、世界とは、という根源的な問いに思いが至らない、自分の関心があることしか見ようとしない、愚かなわたしたち、無明の中にいるわたしたちの姿が明らかにされていきます。ミサが行われなかったら、イエスさまの死と復活が無効になるとでもいうのでしょうか。日曜日ごとに集まって、ミサに参加して、聖体を拝領することで共同体になっているとでもいうのでしょうか。ゆるしの秘跡にいけば、自分の罪はゆるされてそれで世界は平和だとでもいうのでしょうか。わたしたちは、どこまでいっても自分の思った方向で物事を解決しようとします。今までのわたしたちは、あまりにも人間中心というか、自分勝手というか、常にわたしが中心となった価値観、信仰観のなかに埋没してきたように思います。まさに、ペトロが自分なりの考えでイエスさまをも動かしていこうとする上昇志向、その問題に気づかないあり方そのものです。現代は、誰もが自分が円の中心に座って、自分一人がよければそれでよいと言わんばかりに、他のものを周辺に追いやっていく、そんな生き方をしているように思います。あたかも円の中心にあるひとつの椅子を皆が狙っている椅子取りゲームのようなもので、争いがおこるのは必定です。そうではなく、わたしたちは周りに座り、何を中心に据えるかを考えていく、そうすれば、その輪は限りなく広がっていく。そのためには、自分を相対化する視点を持つということが大切だと思います。コロナ禍の中で、ウィルスを排除して人間が勝利することを中心にする限り、その不安が終わることはありません。自分が大切だ、人間が大切だではなく、自分という人間より大切なものがあるという発想をもつことが必要です。これが、人間とは何か、わたしとは何か、いのちとは何か、世界とは何か、自然とは何かを問うていくということだと思います。一番怖いのは、自分は分かったつもりになるということで、それではそれ以上問うということはしなくなるでしょう。問い続けることなく、自分が中心だ、人間が中心だと言い続けるならば、それは自分の思いを正義としたペトロと同じ過ちを繰り返すことになります。

千利休の歌に、「人の行く裏に道あり花の山」というのがあります。最近は投資の標語として使われていますが、いわゆる人間の考える正解や王道では、実際の生身の人間には間に合わないということです。イエスさまが、「わたしの後に従いたい者は…」と言われます。いわゆる、人間としての常識や王道ではなく、視点を変えてみるということです。十字架というものは、わたしたちが望む望まないのにかかわらず、わたしたちにやってくる、そのときどきの状況のようなものです。これをわたしたちは、普通は避けるべき災難、悪、敵とみなして、出来る限り避けようとします。しかし、そのような状況は、わたしたちの都合を聞いてくれません。ある意味、人間がコントロール出来ないものなのです。イエスさまは、何もわざわざ苦しいことを探してそれをやりなさいとは言われません。イエスさまは、あなたが生きなければならないとしたら、その現実をしっかりと見つめないと言われたのだと思います。この考え方は、実は人間としては王道ではないのです。人間は、本能的に十字架を避け、正解を求め、救いを見出そうとします。しかし、それでは間に合わないのです。苦悩のなかで避けられないなら、それが自分の現実なら向き合ってみようかという力が出てくる、それが自分の十字架を担うことであり、自分のいのちを救うことになるのだと、イエスさまは言われます。そして、それはわたしたちの力ではなく、わたしをはるかに超えたところからやってくる、イエスさまの働きに他ならないです。そこに人間として生かされる道があり、希望があるということなのではないでしょうか。

2021年09月09日