「生(い)宣(の)り」(祈り)

「生(い)宣(の)り」(祈り)

                                                  聖ヨゼフ修道会 シスター山本久美子

 「祈りについて」深めるため、最近、日本語の「いのり」の語源を調べてみました。まず、「祈」という漢字は、「示」ヘンに「斤」が付いたものです。「示す」は、その形から祭壇を表わし、「斤」は「近づく」という意味で、つまり、「祭壇(神)に近づく」ということだそうです。「なるほど」と思いました。さらに調べてみると、他に「意を宣る」というところからきているということがわかりました。これは、言い換えると、「気持ち、心の動きを宣言する」ということになります。つまり、「私は、~思っています、~をします」というような意味です。伝統的に「祈り」とは、「神との対話」と言われる通り、まず、私が何を思い、考えているのかを伝えることから、確かにコミュニケーションは始まると思いました。また、「生(い)+宣(の)り」と云う説もあり、それは、「生きる宣言」ということになります。いのちを根源から宣り出すこと、いのちを真に生き生きと生きること、それが「いのり」の本来の意味だというのです。神仏を対象に、願い事をする、助けや救いを求めるというよりも、人間のいのちそのものが、自然本性として祈るという意味なのでしょうか。その時、私は、まさに祈りというのは「これだ」と思いました。「生きていること」、「いのち」を、あるいは、その基本である「息をする、呼吸する」こと自体を自覚して深めることこそが、元来「いのり」であり、「いのちの与え主」である神に応えていくことだと、私は感じました。
そんなことを思い巡らしながら、普段のように外を歩いてみると、いつも目に入っているはずの自然や行き交う人々、その一つひとつを丁寧に受けとめて観ている自分に気付きました。何だかすべてのことが新鮮に見え、風に揺れる木々の葉っぱ、太陽の光に照らされて輝く緑、色とりどりの花々、青い空、白い雲等、その一つひとつから「いのち」を感じ、みな「生(い)宣(の)っているな」と感じました。同時に、この私が、「今、ここにある」ということを深く心に感じ、私を含めたこの被造界が、もっともっと大きな「いのち」に包まれ、育まれ、見守られ、「生かされている」のだと実感しました。その時、自然に、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。…明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ福音書6:25~34)の聖書のみことばを思い出しました。
聖書の創世記にあるように、御父なる神様がこの被造界を創られたなら、この被造界そのものが神のいのちの充満だと言えるでしょう。特に、「神の似姿」として創られ、その息を吹き込まれて生きている私たち、人間のいのちは、まさに神様の「いのち」ということ、呼吸する「息」は、神様の「息」ということです。
以前、私は、通算8年間、障害のある子どもたちの療育や教育に携わる施設や学校で働きました。その間に、寝たきりで、自分では何もできない、全介助を必要とする子どもたちとも関わりました。それまで大した苦労も知らなかった私でしたが、毎日、食事介助やオムツ交換をさせてもらいながら、多様な人生、人間のやさしさや脆弱性、取引なしで「奉仕」することの静かなよろこびを学びました。度々、自分の未熟さ、コミュニケーションの難しさを感じることもありましたが、言葉以上の「いのち」の関わり、不思議さ、一人ひとりの「存在」の尊さを教えられました。たとえ何もできなくても、存在そのもので、「今、ここで」与えられている「いのち」を精一杯生きている子どもたちを通して、マタイ福音書の意味が腑に落ちたように思いました。
たいていの場合、私たちは、自分の予定や計画通りに物事が運ばない時や、人間的に考え、うまくいかない出来事を、「良くないもの」「あってはならないこと」と、どこかで判断しがちです。そして、まだ起きてもいないうちから、思い煩い、「うまくいかなかったら」「○○に失敗したら」…と心配し、私たちの人生は、本当に心配ごとや悩みごとの連続になってしまうのです。また、何かを行う時も、今日これからのためであったり、何かを始めるにあたっても、「明日から」「来年こそは」と後回しにしたりしがちです。日々の祈りや黙想でいろいろな気付きをいただいても、なかなか「今、この時、この場」で、すでにいただいている恵み、「いのち」を味わうことに結びつきません。私たちは、今というこの時を、どんなにおろそかにやり過ごしてしまっているか、今の自分をほとんど意識せずに過ごしているかに気付かされます。
今、与えられている「いのち」、「時間」、「出会い」をもっともっと大切に意識できるなら、私たちは、人生の意味や深みを見出し、いのちの輝きが増し、自分がどんな状態であっても、変わらずに目を注いでくださる大きな存在、大きないのち、私たちの存在を根源から生かしてくださる方に気付き、目を向けることにつながるのではないでしょうか。日々、生かされていることを意識して精一杯応えていく、心を開けて、「私は、このように生きています」と、いのちを語って行く、それこそが、「生(い)宣(の)り」(祈り)なのではないでしょうか。

2019年06月23日