2025/12/04 待降節第1主日a (北村師)

待降節第1主日 マタイ24章37~44節

北村師

待降節に入りました。待降節はアドベントウスといわれ、日本語では降誕を待つと訳されていますが、本来の意味は「主が来る」という意味です。この日本語の訳は人間の側からみた、人間中心の訳になっていますが、本来は「主が来る」というイエスさまを中心とした季節であるということを指摘しておきたいと思います。

わたしたちが待つということを中心に据えると、さてどのように主の降誕を準備しようかとか、告白して心の準備をしようとか、わたしたちの心がけの問題になってしまいます。しかし、イエスさまが来られることを中心に据えると、少し雰囲気が違ってくるのではないかと思います。

今日の福音でも主は思いがけないときに来るといわれています。主は、いつ来られるのでしょうか。4週間後でしょうか。1か月先でしょうか。1年先でしょうか。10年先でしょうか。100年先でしょうか。そして、何のために来られるのでしょうか。それを知るためにはイエスさまの時代の人々が生きていた思想を知ることが必要になるかと思います。

当時の人々の間には終末思想が浸透していました。終末思想というのは、天変地異が起こり、苦難が訪れ、最終的には神さまが介入してイスラエルの民が再興され、勝利するという考え方です。日本の鎌倉時代の末法思想に似たところがあります。今日読まれたマタイ福音は、紀元70年のユダヤ戦争の後に書かれました。ユダヤ戦争では、ユダヤ人にとって、キリスト者にとっても心の拠り所であったエルサレムがローマ帝国によって陥落させられ、エルサレムの神殿も破壊され燃やされました。人々は、そのときにこそ神さまが介入されると信じていました。しかし、神さまの助けも、介入もありません。じゃ、あの終末思想は何だったのかということが人々の疑問として湧き上がってきました。神さまの助けはない、イエスさまが再臨されることもない。自分たちの思っているようなメシアは来ないのではないかと。

こうして、終末思想、イエスさまの到来について広まっていた考え方が、教会の中でも修正されていくことになります。当初は終末を時間の流れの中で理解していこうとしますが、イエスさまが来られるということは、何年か後の時間の中での出来事ではないということがわかってきます。そこで、四終-死(私審判)、最後の審判、地獄、天国-という考え方がうみだされ、それが教会の中で定着していくことになります。今日でもそのように説明され、教えられています。確かに最近はあんまりいわなくなりましたが、このような考え方は現代人には受け入れがたいものとなっています。

少し考えたらわかるのですが、イエスさまが来られるということは、今、このときの出来事であるということです。なぜなら、わたしたちは生きているのは、いつも今というときでしかありません。わたしが生きているのは、昨日でも、明日でもなく、今、今しかないのです。ですから、わたしが生きているところに死はなく、死があるところにわたしはないのです。ですからイエスさまが来られるのは、今というときをおいてないわけです。それが過去のことであったとしても、将来のことであったとしても、そのときはわたしの今なのです。そう考えると、12月25日にイエスさまが来られるということではなくて、今日この日この時がイエスさまが来られるときであることがわかります。つまり、今、このときが主の来臨、主の降誕、イエスさまの訪れのときだということです。12月25日だけを主の降誕として祝うのではなく、今このときをイエスさまの訪れのときとして生きられたら、わたしたちはどんなに幸せでしょう。

イエスさまはわたしたちを裁くためでなく救うために、ベトレヘムに来られました。そのベトレヘムは動物の糞だらけの汚い家畜小屋です。イエスさまが来られるのはきれいなベトレヘムではありません。そして、このわたしたちも糞だらけの汚い家畜小屋のようなものです。イエスさまは、日ごとの生業と労苦で右往左往して、欲のこころを起こし、人のことを怒り妬み、傷つけ恨んだり、悩み迷っている糞だらけのわたしのところへ来てくださるのです。そして、わたしたち一人ひとりに寄り添ってくださるのです。何の準備も、何も畏まる必要もないのです。わたしのこころがけ次第で来てくださったり、来てくださらないのではない。黙想したから来てくださるわけではない。また信者だから来て、信者でないから来なかったりされるのではない。善人だから来て、悪人だから来てくださらないのでもない。わたしたちのこころがけの問題ではないのです。そのまんまのわたしのところへ、イエスさまは来てくださるのです。わたしたちは、イエスさまをそのまんまいただくことしかできないのです。堅苦しい態度も、小難しい理屈も神学もいりません。キリスト教は、一部の選ばれたひとたち、洗礼を受けた人のためにエリート集団ではないのです。この福音は全人類みんなのものなのです。

そして、今このときが主の訪れとなったわたしたちは、今度は他の人々のところへわたしのうちにいらっしゃるイエスさまをお連れするのです。わたしたちはそのイエスさまを、みことばにおいて、聖体の秘跡において、またわたしたちのうちにおられるイエスさまの現存によって、すべての人のところにイエスさまをお連れするのです。イエスさまはわたしのイエスさまがですが、イエスさまはすべての人のイエスさまです。そして、わたしのイエスさまはわたしを通して、人々のところにいきたいのです。それがわたしたちが出ていくということ、派遣されているということなのです。

 

2025年12月04日