2023/04/09 今日いちにちを明るく(岡崎 知夫)

今日いちにちを明るく

岡崎 知夫

  もしコロナに感染したら、高齢で基礎疾患がある私に命はないと思うと、こわくて、教会と医者と、愛犬の散歩くらいしか家の外に出ていません。

 私は平均寿命を数年前に超えて、あと何年かの平均余命に生きています。もう足元がおぼつかなくてひょろひょろする、体調が安定しない、身体のどこかが痛み、小さなことで一喜一憂し、大切なことを忘れることもしょっちゅうです。好き嫌いがはっきりしてきたりして、歳をとって生きるのはこんなしんどいものかと身にしみて感じています。

 それでも息子が毎日夜遅くまで厳しい仕事に追われて帰ってくるのを見ると、私は年金で生活していて、豊かではないものの、毎日、本を読んだり、パソコンに向かったり、テレビを見たり、好きなことをして気ままに過ごしていますし、子どものころは身体が弱かったのにこれまで生きてきて、日々過ごすことができるのはとてもありがたいこととも思えます。

そんな中でとても心に響いた言葉があります。「頼りなく、望みなく、心細い人は幸せだ」。これこそイエス様が私のために言われた言葉ではないかと思いました。この言葉は、よく知られている「心の貧しい人は幸いである(マタイ5:3)」というイエス様の言葉の原文を、山浦玄嗣医師が東北地方の言葉で翻訳したものです。このイエス様の言葉の本当の意味を知ったような気がしました。

身体と心の衰えによって、人のために役立つことが出来ないのがとても寂しい気がします。人と接していれば、何か困った人を見かけて声をかけるような、小さな親切くらいできそうですが、それがないのです。せめてと思い、毎年、国内外のいくつかの奉仕団体にわずかな献金をしていますが、そのくらいしかできない、あと私にできるのは、人のために祈るくらいです。

好奇心はまだまだ残っているので、いろいろなことに疑問を持つことが多くて、ツイッターに書いたり、新聞社やテレビ局に電話していますが、それもいじわる老人の域をでないような気がします。

本を読んだり、考えたりで毎日をすごしていて、最近ようやく、「先のことは考えずに、今日いちにちを、できれば明るく生きて行こう」という気になりました。「明日のことでクヨクヨ気を揉むものではない(マタイ6:34)」(山浦訳)とイエス様は言われています。

この歳になってようやくそのことに気づいたのかと考えると少し気恥ずかしいのですが、ようやく毎朝、今日いちにち明るく生きようと思い、夜になって、今日なんとか生きることが出来たなあという気持ちで寝床に入っています。私はこれまで、今日より明日、明日よりあさって、一歩ずつ上を目指した生きかたをしてきました。今では朝起きたとき、今日いちにちが昨日より少しでも上にと考えるのはもう私には無理かもしれませんが、まだ信仰の道が残されているのでしょうか。

2023年04月23日