主を待つ 主が来る
北村 善朗
待降節はアドベントといわれます。「主が来る」という意味です。待降節というふうに誰が訳したのかわかりませんが、本来の意味である主が来るということより、主を待つという人間側の姿勢に重きを置いた訳がされています。ちょっとした違いかもしれませんが、主を待つというときの主語はわたしたち人間で、あたかも人間のあり方やこころの姿勢によって、主を来させることができるかのような印象を与えてしまっていないでしょうか。待降節の主日の聖書朗読をみてみると、「いつ家の主人が帰って来るのか、あなたがたにはわからない。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけられかもしれない。あなたがたにいうことは、すべての人にいうのだ。目を覚ましていなさい」とあります。主の到来と主を待つもののあり方の両方が書かれています。しかし、わたしたちは主が来られるということはよくわからないので、わたしができることに勢い関心が向いていきます。わたしがふさわしいものになろうとか、よく準備をしようとか、目を覚ましていようというふうになります。それはそれで構いませんが、視点がずれているように思います。
ここでやはり真実なものは何かというと、必ず主は来られるということです。わたしがどれだけふさわしく準備をしようとも、目を覚ましていようとも、主の到来はわたしたちのあり方やこころの状態と関係ありません。今までのカトリック教会は、主が来られたときのわたしのこころのあり方や状態によって、救いが左右されるような教え方をしてきました。もちろん緊張感をもたせたり、絶え間のない怠りを喚起したりするうえで有益な教育方法だったのかもしれません。しかし、そのような教え方によって、わたしたちは主の訪れを、救いとしてではなく裁きとして、喜びではなくて恐れとして捉えるようになってしまったのではないでしょうか。そもそも、主の到来を時間の流れの中で捉えようとすること自体が、今というときを生きているわたしたち人間に、ものごとを将来へと先延ばしにする、まちがった生き方を助長してしまってはいないでしょうか。
わたしが生きているのは今というこのときであって、過ぎ去った過去でも、また来ていない未来でもありません。わたしが生きているのは、今というこのとき、この瞬間、この刹那のときです。刹那というのは仏教におけるきわめて短い時間の単位のことで、一説によると一刹那のことを75分の1秒だと考えているようです。わたしが生きている今というときは、わたし自身も捕らえることができず、わたしのこころもからだも絶えず変わり続けています。一瞬として、からだもこころも留まっていることはできません。わたしは変わりどうしです。怒りたくないと思っていても怒りのこころが湧いてきたり、憎みたくないのに憎しみのこころが湧いてきたりします。年をとりたくないといっても、年を取り、病気になりたくないといっても病気になり、死んでいきます。生きるというのは、そういうことなのではないでしょうか。そのからだの変化に、わたしたちのこころは大いにかき乱されます。そのような変わりどうしのわたしなど、何にもあてになりません。それでは、何か変わらない確かなものがあるのでしょうか。それが、イエスさまがわたしのところに必ず来られるということなのです。イエスさまが来られる、このことだけが真実なのではないでしょうか。わたしが待つことなど、あてにはなりません。わたしが生きている、今このときに主が来られる、このことに信頼していきたいと思います。
えくれしあ386号2023124発行より