年間第29主日の勧めのことば(北村師)

年間第29主日 マルコ10章35~45節

今日の聖書の箇所は、イエスさまが3度目のエルサレムでの受難予告をされた直後の箇所です。「今、わたしたちはエルサレムに上って行く」。イエスさまは、先頭に立ってエルサレムに向かって進んでいかれました。その姿に弟子たちは驚き、従う者たちは恐れたとあります(10:32)。さすがに鈍感な弟子たちも、周りの雰囲気やイエスさまの様子から、エルサレムに上ることは唯ならぬことであることに気づき始めていたのでしょう。そのような状況のなかでのヤコブとヨハネの願いが描かれます。マタイにもほぼ同じ並行箇所が見られますが、マタイではヤコブとヨハネの直接的な願いではなく、母親の願いとして描かれています。それにしても、マルコでは、イエスさまの3回の受難予告の直後に、イエスさまに無理解を示す弟子たちの姿があからさまに描かれています。その度に、根気強く、イエスさまは弟子たちのあり方を教えていかれます。主導権争いに終始する弟子たちに対して、今日のことばは、イエスさまの姿勢を要約したものと言えるでしょう。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」。これがイエスさまの自己理解であり、イエスさまが考えておられた神の国の宣教ということなのです。

ヨハネの福音書のなかに、最後の晩餐の席で、自らが跪いて弟子たちの足を洗われるイエスさまの姿があります。イエスさまは、福音宣教を人々への奉仕として理解されていました。わたしたちは、福音宣教というと、イエスさまを知らない人たちにキリスト教を伝え、洗礼に導くことだと考えがちです。特に、戦後の日本の教会は、貧しく教育の行き届かない日本人に、教会の教えを伝え、教育をし、洗礼に導くことを中心にやってきました。確かに、それも福音宣教の一部でしょうが、そのような捉え方は、福音宣教の真の姿を弱め、歪んだものとする危険があると言わざるを得ません。その一番大きな問題は、上から目線の布教で、イエスさまの福音宣教の姿勢とは根本的に異なっていると言わざるを得ません。

 教会では、永らく布教ということばが使われてきました。布教は大航海時代ごろから使われた言葉であり、文字通り、イエスさまを知らない人々に教え、説教し、信仰教育をし、洗礼その他の秘跡を授けることと定義されてきました。その布教ということばは、プロパガンダ=宣伝が語源で、「特定の思想・世論・意識・行動へ誘導する意図を持った行為」であると言われます。バチカンの福音宣教省は、かつては布教聖省と言われ、まさにそのような上から目線の発想でやってきました。大航海時代から始まる植民地政策にキリスト教の宣教師が同行し、キリスト教の伝達という名のもとに、植民地化された人々を霊的植民地化していくという形で布教が行われてきました。第二バチカン公会議は、そのような教会の姿勢を改め、福音宣教(福音化)ということばをもちい、布教聖省も福音宣教省という名前に変更されました。第二バチカン公会議は、イエスさまの福音宣教の姿勢を再興しょうとしたのだと言えます。

このようなイエスさまの神の国の宣教の心構えは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということばに要約されています。確かにイエスさまは、福音宣教を奉仕として理解されていたのでしょう。しかし、この奉仕ということばも気をつけないといけないと思います。「仕える」というのですから、そこには上下関係が前提とされてしまいます。実際、イエスさまも、「あなたがたのなかで偉くなりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。いちばん上になりたいものは、すべての人の僕となりなさい」と言っておられます。少し意地悪な読み方をすると、奉仕するのは、偉くなりたいから、いちばん上になりたいからでしょうということになります。主導権争いをしている弟子たちのレベルに合わせると、イエスさまはこのように言うことが精一杯だったのかもしれません。むしろ大切なのはその仕え方です。その仕え方は、「多くの人の身代金として自分のいのちをささげる」までの奉仕であると言われます。当時の身代金というのは、元来、奴隷となった人を受け出すために支払われる代金を意味しています。この文脈から見ると、人類を罪の奴隷状態から解放するためになされる神のみ業を指すと考えられます。つまり、イエスさまの存在、また人間としての生涯そのもの、特に十字架上の犠牲を指していると言えます。ここで気をつけなければならないのは、イエスさまの「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということばと、弟子たちに言われた「あなたがたのなかで偉くなりたいものは、皆に仕えるものになりなさい。いちばん上になりたいものは、すべての人の僕となりなさい」ということばは、同レベルではないということです。イエスさまのことばは、まさに人類を罪の奴隷状態から解放するためになされる神のみ業を現わしています。しかし、弟子たちに勧められたことばは、あくまでも人間レベルの話です。そこに決定的な違いがあります。先週の福音で、「それでは、だれが救われるのでしょうか」という弟子たちに対して、「人間にはできることではないが、神にはできる。神は何でもおできになるからである(10:27)」と言われたイエスさまのことばにあるように、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分のいのちを捧げるために来たのである」ということは、イエスさまにしかできない神のみ業であるということです。

イエスさまは、最後の晩餐の席で弟子たちの足をお洗いになりました。その後に、「ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合いなさい(ヨハネ13:14)」とお命じになり、さらに、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である(同15:12)」として、相互愛の新しい掟をお与えになりました。ここでイエスさまが「わたしが愛したように」と言われる愛し方は、十字架で自分のいのちを与え尽くすまで、わたしたち人類を愛して、愛し抜かれた愛し方(同13:1)を意味しています。これは、神さまの愛し方であり、わたしたち人間にできるものではありません。それならば、なぜ、イエスさまは新しい掟を人類にお与えになったのでしょうか。イエスさまはわたしたちの弱さ、不完全さをよくご存じでした。そのことを知った上で、わたしたちのためにいのちをかけて、自分のいのちを与え尽くすことによって、わたしたち人類のうちに新しいいのちを与えてくださいました。それが、イエスさまの愛の霊である聖霊です。「わたしの父はその人を愛され、父とわたしはその人のところへ行き、一緒に住む(同14:23)」と言って、わたしたちの魂の内奥に現存することを約束されました。これが、わたしたちのうちにイエスさまがおられるということです。ですから、わたしが愛するのではなく、イエスさまがわたしたちのうちにおいて愛されることが可能になっているということなのです。つまり、イエスさまが、わたしにおいて、他者を愛されるということなのです。ですから、このような愛がわたしのなかで働いているとき、それはわたしではなく、イエスさまの働きでしかないと言うことができます。そして、そのような愛においては、誰が誰に仕えるとか、どっちが上で下とか、どっちが仕えるとか仕えないとかいうような、人間の価値基準のレベルはもはや問題になりません。このような愛が、イエスさまによってわたしたちに注がれており、わたしたちはそれを信じることしかできないということなのです。ですから、このような愛はただ恵みであって、わたしたちが自力で獲得できるものではありません。わたしたちは、祈りにおいて、イエスさまにこの愛を願うこときりしかできないのです。

2021年10月15日