年間第30主日 マタイ22章34~40節(北村師)

年間第30主日 マタイ22章34~40節

今日の聖書の箇所は、キリスト教では黄金律とも言われる大切な箇所です。しかし、この黄金律と言われる教えは、イエスさま独自の教えではなく、旧約聖書からの引用です。しかし、旧約聖書のまとめともいえるこの個所を引用することで、イエスさまは全く新しいことを教えておられるのです。今日は、そのことをお話ししたいと思います。

ここでは3つの愛について語られています。①神への愛、②自分への愛、③隣人への愛です。先ず神さまを愛することがどのようなことかを考えてみましょう。ユダヤ教では、完全に律法を守ることによって果たされると考えられてきました。しかし、多くの人は守ることは出来ませんでした。イエスさまの到来によって、その教えと生き方、特に十字架と復活によって、神の愛が完全な形で示されました。つまり、神さまへの愛は、律法の遵守によってではなく、神の愛の意味を理解することによって、全く違った様相を呈するようになりました。神の愛、イエスさまの愛の本質は、自分を与えることしか知らない愛、完全な自己譲渡、わたしたちを全く無条件に愛し、ゆるし、受け入れていかれる愛であるということです。相手が罪人であろうが、何であろうが、関係なく、わたしたちを愛し、受け入れ、ご自分を与えられます。イエスさまは愛するために、わたしたちに如何なる業、善行も要求されません。ただ、イエスさまはわたしたちを愛したい、受け入れたい、ゆるしたいのです。そこには如何なる罪も、如何なるものも一切碍げになりません。それはあたかも太陽の光が、すべての闇を退け、すべてのものに等しく降り注ぐのに似ています(マタイ5:45)。X線が如何なるものも障がいとせず、あらゆるものを貫き通すようなものです。

もしわたしたち人間の側にできることがあるとすれば、わたしたちを愛し、ゆるし、受け入れたいと切に願っておられる、イエスさまの愛、ゆるしをわたしが受け入れることです。しかし、新約の時代になっても、多くの人が旧約を生きています。つまり、教会の掟や規則を守ること、善行を行うことによって、イエスさまに愛され、受け入れられると勘違いし、イエスさまの愛を受けようとしません。このことが、イエスさまの一番の苦しみ、悲しみとなっています。イエスさまは愛したいのです。でもその愛を受け取る人がいなければ、その愛は一方通行で、愛は成立しません。だから、神さまを愛すること、イエスさまを愛することは、その愛をわたしが受け取りことに他なりません。それが、イエスさまの最大の喜びであり、こうしてイエスさまの愛したいという願いが成就するのです。そのことがあまりにも知られておらず、教会の掟や規則、善行をすることに縛られ、それを守ることによってイエスさまから愛されるのだと多くの人が勘違いしています。それが、ずっと続いています。その間の、イエスさまのお苦しみはどれほどのものでしょうか。愛したくても、その愛を誰も受け取ってくれない。姑息な自分の業を差し出して、イエスさまと駆け引きをしようとする。まさに、愚かとしか言いようがありません。

ですから、自分を愛することは、このイエスさまの愛を受け取ることだと言ったらいいでしょう。しかし、わたしたちは、往々にして、自分以外の何かになろうとします。しかし出来ないので、自分に拘り、自分を責め、自分を卑下し、自分を虐めたりして、自分のことを受け入れることができません。自分を愛するとは、自分を甘やかすこととかではなく、イエスさまのわたしへの無条件の愛を受け入れることなのです。そして、イエスさまが愛してくださっているように、わたしが自分をゆるし、自分を虐めることを止め、ありのままのわたしを受け入れること、自分以外の者になろうとすることを止め、自分らしく生きること、自分を肯定すること、それが自分を愛することなのです。わたしたちが、自分を虐め、自分に暴力をふるうなら、その暴力は、必ず他者への暴力へと転化していきます。しかし、わたしたちが自分を正しく愛するとき、当然、その愛は他者へと向かっていきます。全ては、イエスさまの愛を知り、その愛を信じ、その愛に触れることにかかっています。わたしたちが自分で全く何もできないと感じるときこそ、イエスさまの愛に触れる契機となり得るのです。

神への愛と隣人への愛は別々のものではなく、ひとつなのです。イエスさまの愛を体験すれば、嬉しくなって、動きたくなるのです。隣人愛はキリスト教の教えだから、それを実行しましょうということではなくて、自然と他者に向い、関わりたくなるのです。これが、3つの愛の特徴です。全ての愛の源はイエスさまです。イエスさまの愛について深めることは、自然とすべてに繋がっていきます。わたしたちも、先ず、その出発点に立つようにしていきましょう。

2020年10月23日