年間第19主日 マタイ14章22~33節(北村師)

年間 19 主日 マタイ 14 章 22~33 節

今日の聖書の個所は、マタイの教会の抱えていた状況を色濃く反映した箇所であると言えるでしょう。紀
元 70 年に、エルサレムの都がローマ帝国によって滅ぼされ、ユダヤ教は律法主義を中心としたファリサイ派
が主流を占めるようになります。同時に、キリスト教はユダヤ教から完全に排除され、異邦人世界へと宣教の
目を向けていかなければならなくなります。しかしながら、マタイの教会は、ユダヤ教の伝統を色濃く残して
いますので、律法主義への誘惑が常にあったのでしょう。律法主義の根本的な問題は、律法の遵守によっ
て神から義とされるという自力作善の信仰理解にありました。簡単に言えば、人間は、自分の力で神に至るこ
とができる、救われるというものです。しかし、人間の力で救いに至ることができるのなら、イエスさまも、信仰
も不要となってしまいます。そのような、状況にあったマタイの教会の人々に、イエスさまとは一体だれか、人
間とは一体何かということを問うというのが、マタイ福音書のひとつのテーマとなっています。

この問題は、実は、最も現代的な問題であるとも言えます。近代以降、人間はこの世界の支配者として君
臨し、人間の力ですべてを解決でき、自分の力で幸せになることができると信じて、突き進んできました。そ
れは、神抜きの世界を築いてきたということに他なりません。しかし、現実はどうでしょうか。人間中心主義に
よって推し進められてきた結果、社会の中に様々なひずみ、問題を生み出してきました。実は、現代の日本
のカトリック教会の一番大きな問題は、キリスト教であると言いながら、イエスさま抜きで、人間の力ですべて
を何とかしようとしていることです。イエスさまの名前を使っていますが、本気で、イエスさまを必要としていな
い。まさに、マタイの教会が直面していた律法主義、人間の力で何とかなる、人間の力で何とかしようとして
いることとなのです。人間の力ですべてができるという奢り、そして、そのような自分たちの前提を疑ってみる
こともないという、深い深い人間の闇に対する無自覚ということこそが問題なのです。そのような、現状を押さ
えて、今日の福音をもう一度読んでみたいと思います。

イエスさまは、このような生き方をしてしまっている弟子たちを-これは実はわたしたちのことなのですが-、
「強いて舟に乗せ、向こう岸に先に行かせ」ようとされます。その舟の中には、イエスさまはいらっしゃいませ
ん。弟子たちの何人かは漁師で、ガリラヤ湖は自分たちの仕事場です。経験もある、ノウハウもある、自信が
あるわけです。だから、イエスさまがいないことに不安も感じていなかったでしょう。しかし、突然、嵐に巻き込
まれ逆風に悩まされて、自分たちの経験も何も役に立たない状況に追い込まれます。海、湖は人間のコント
ロールの効かないものの象徴です。これは、今まさに、わたしたちが体験している状況であると言ってもいい
でしょう。コロナという感染症の前には、人間の力は全く無力であることを体験させられています。現代の社
会は、人間の力を絶対視して歩んできました。それが現代の大きな潮流となっています。その中で、真の人
間性を回復することが、実は宗教の役割なのですが、宗教の中にまで、その人間中心主義が入ってきてい
ます。カトリック教会でも例外ではありません。自分たちの信念という信仰があれば、ペトロのように水の上さ
えも歩けるという奢りに陥っています。自分たちは伝統も、経験も、知識もある。この分かったつもりになる、と
いうことが一番恐ろしいことなのです。自分たちの力で分かったつもりになる。このことが自分自身の真の姿
を見えなくし、人間の愚かさに気が付かなくさせてしまっています。人間の偽善とか無明と言われることです。

その現実に気づかせるために、イエスさまは弟子たちに近づかれます。しかし、弟子はそれがイエスさま
であることさえ分からないほど、自分に囚われて混乱しています。その弟子たちに、「安心しなさい。わたしだ」
と言われます。「わたしだ」と言われた言葉は、神さまがモーゼに現れたときに、告げられた名前です。新しい
聖書協会訳では「わたしはいる、というものだ(出エ 2:14)」と訳されています。「恐れるな。わたしがあなたを贖
った。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたが水の中を渡るときも、わたしはあなたとともにおり、川の中でも、
川はあなたを押し流さない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎もあなたに燃え移らない…恐れるな、
わたしはあなたとともにいる(イザヤ 43:1~5)」と、イザヤ書で言われている方が今、目の前におられ、そのみ
ことばが実現している。イエスさまと出会っていくことを通して、愚かな、分かったつもりになっている自分が破
られていく。そして、イエスさまが舟に乗りこまれると嵐は静まっていきます。こうして、弟子たちは、浅ましい
人間の知識より解放されて、自力で苦海を渡ろうとしていた愚かさ気づかされ、イエスさまの救いの舟に身を
委ね、はじめて真の信仰へと突破口が開かれていくのです。「本当に、あなたは神の子です」と。その後も、
弟子たちの愚かさは変わりません。しかし、その愚かしに気づかされていく中で、「あなたとともにいる」と言わ
れたイエスさまの言葉が、生活の中で様々な苦しみを抱えている己の身に響いてくるようになるのです。

2020年08月01日