四旬節第2主日 マタイ17章1~9節

「 四旬節第2主日 マタイ17章1~9節」

今日はイエスさまのご変容の個所が朗読されます。イエスさまがガリラヤでの宣教に終止符を打ち、エルサレムの都へ向かう決意をし、その途上でご変容の出来事があったことがしるされています。イエスさまは高い山で、弟子たちに栄光に輝くご自身の姿を見せられました。その目的は何だったのでしょうか。栄光という言葉自体は、一般的には人が成功・勝利などによって他人から得る好意的な評価のことを指しています。元々日本語にはあんまりなじみのない言葉です。

イエスさまがエルサレムに向かおうとされた時点で、弟子たちが考えていたのは、いよいよ、イエスさまがガリラヤでの活動を終えて、エルサレムに政権を取るために向かわれるのだというような思いでした。弟子たちは、イエスさまのことをローマ帝国の支配下から解放してくれる革命家のリーダーだと思っていました。そして、イエスさまの企てが成功すれば、あわよくば自分たちが政権を握ろうと思っていたのでした。それこそまさに、先週の日曜日の荒れ野の誘惑で悪魔がイエスを試した3番目の誘惑、人間的な価値観、考え方、やり方を推し進めることに他なりません。つまり質より量、少ないことよりも多いことを、小さいことよりも大きいこと、弱いことよりも強いこと、出来ないことよりも出来ることという量の価値観を選ぶということです。弟子たちはそれの価値観、野望に捕らわれていました。つまり、イエスさまと一緒に居ながら、何もイエスさまに耳を傾けていなかったのです。だから、イエスさまの栄光の姿をあえて愚かな弟子たちに見せ、とにかく先ずイエスさまに聞くことを求められたのではないでしょうか。

わたしたちはとかくすれば社会の人間的な価値観に目を奪われがちです。人がたくさん集まればいいとか、うまくいけばいいとか、結果が出ればよいとか考えがちです。でも、それはイエスさまの価値観ではありません。イエスさまがエルサレムに行かれるのは、成功を収めるためではありません。むしろご自分の死を通して、復活のいのちへと移っていくという過越しによって、わたしたちひとりひとりの救いを実現していくためです。イエスさま一人の死が、すべての人にいのちをもたらしました。イエスの栄光というものは、ご自分の全く無駄と思えるような死を通して、すべての人にいのちをもたらすことでした。イエスの栄光は人間的な成功や勝利を修めること、結果を出すことではありません。まさにごく小さいことを大切にしていくことなのです。

確かにわたしたちはすべての人々のいのちを大切にしなければなりませが、自分のすぐ身近にいる人を大切にしないで、どうしてすべてのいのちを大切になど出来るのでしょうか。所詮きれいごとになってしまいます。大きなことを言うなら、自分の目の前にいる身近な人々を大切にしていくことが人間としてあたりまえのことでしょう。そして、そこからしか始まらないのです。そして、そのようなイエスさまの生き方、死に様に触れた人たちに福音が伝わっていきました。華々しいことやめだったことによっては、福音は伝わりません。むしろイエスさまと一人の人が出会っていくところからしか始まらなかったのです。まさにイエスさまが十字架に架けられておられてとき、隣の盗賊に声をかけられたように。

イエスのこの姿こそ、イエスの栄光です。最もイエスさまがイエスさまらしい姿です。そして隣で声をかけてもらっている盗賊はわたしに他ならないのです。このイエスさまの心にわたしたちも聞き入るようにしていきたいものです。

2020年03月21日