年間第21主日 ヨハネ6章60~69節(北村師)

年間第21主日 ヨハネ6章60~69節

「実にひどい話だ。だれが、こんな話をきいていられようか」。これが、ヨハネ6章で、イエスさまが話してこられたことへの人々の反応です。なぜでしょうか。イエスさまが生きておられた当時のユダヤ教は、律法を中心とした教えとなっていました。つまり、律法や掟を守ることによって、神から義とされ、律法を守れなければ、神から義とされないという単純な因果応報、勧善懲悪が教えの基本になっていました。罪を犯しても、悔い改めれば神の前で義とされ、悔い改めなければ、呪われるという、ある意味で人間に非常に分かりやすい教えでした。しかし、そのような単純な〇×的な教えでは、すべての人間に対応することは出来ません。イエスさまの時代、十戒に由来する律法は613項目に細分化され、そのすべての掟を守るためには、細心の注意と努力が要求されます。例えば、安息日の労働は厳しく禁じられ、歩く歩数までも規定されていました。現代においては、冷蔵庫を開けることやエレベーターに乗ることも禁じられています。それらの動作によって電灯が点るわけで、それは火起こしの労働にあたると考えられているからです。そうすると、613項目にもおよぶ掟を守れるのは、一部の限られた人々になっていきます。それが、イエスさまの時代のファリサイ派の人々にあたったわけです。ファリサイということば自体、「区別されたも」のという意味であり、ユダヤ教の教え自体が、人々に中のなかに、差別、区別、分断を引き起こすものが内包されていました。そのような状況の中で、イエスさまは、ユダヤ教の教えの原点に立ち返るようにされます。善人にも悪人にも日を昇らせ、雨を降らせる慈しみぶかい神、創世記ですべてを「よし」とされた創造主の姿を説いていかれます。イエスさまは、613にも細分化された掟を守ることが出来ない人々から、圧倒的な支持を受けることとなります。なぜなら、彼らは、律法を完全に守ることが出来ないもの、イコール罪人と決めつけられて、差別され、神さまの救いから除外されたものとして扱われていたからです。だから、律法を守りたくても守れない、また守ることが出来なくても、神さまから受け入れられているということは、大きな喜びの知らせ、いわゆる福音となったからです。

わたしたちは当たり前と思っているかもしれませんが、神さまは、人を一切区別なさらないということは、当時の人々にとって大きな驚きだったのです。しかし、そのことをよく思わない人たちもいました。というか、わたしたち人間は、平等に扱われる、救われるということが気に入らないのです。例えば、わたしを虐めるあの人が、わたしと同じように救われるというのは嫌なのです。自分の大切な人を傷つける人が、救われることを受け入れられないのです。だから、そのような人は極刑を受けてでも、その罪を償ってほしいと思うのです。主要先進国で死刑が平気で行われているには、日本とアメリカの一部の州ぐらいです。被害者の家族の心情を考えると分からなくもないのですが、加害者の人権を認めない、死刑制度の圧倒的支持者が多いのが日本の現状です。日本の多くの人は、心情的に被害者の家族に同情し、自分は決して加害者にはならないと思っているのでしょう。しかし、16世紀、親鸞は歎異抄の中で、「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」と述べています。わたしたちが加害者とならないのは、たまたまであって、状況が変われば百人千人でも殺す側に回ってしまう、人間の不安定なあり方を述べています。戦争になれば、わたしたちは殺す側にも、殺される側にも回ってしまします。戦争でなくても、主要先進国が、また主要先進国のなかの一部の人が富と権力を独占していることで、世界中で貧困と飢餓によって、毎日2万人以上の人が亡くなっていると言われます。わたしたちは、何も悪いことをしていないつもりでも、わたしたちは構造的な悪に加担し、貧しい人々を搾取し、殺す側に立っているということなのです。人間が生きるとき、誰も「殺」という現実を抜きにして、生きることが出来ないのです。これは、教皇であれ、司教であれ、わたしたちは、毎日飢えで亡くなっていく人たちがいる一方で、何もないかのような顔をして生きているという現実があるのです。だから、わたしたちは誰も、「わたしは決してそのようなことはしません」とは言えないのです。そのような人間の抱えている闇というか業というか、そのようなわたしたち人類に対して、イエスさまは、敵・味方、加害者・被害者の別なく、ともに生きる世界、神の国の到来を宣言されました。それに対して、いわゆる権力者、富裕層、律法を守れる立場にいた人たちは、それは受け入れられないと言ったということです。「実にひどい話だ。だれが、こんな話をきいていられようか」。なぜなら、皆が平等に救われるということは、自分たちの都合が悪いからです。それゆえ、それらの人々によって、イエスさまは十字架に送られます。

しかし、イエスさまは、その人たちを否定することさえされません。「父よ、彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです(ルカ23:34)」というイエスさまの祈りは、自分を十字架に釘付けにする死刑執行人に対して言われたのではなく、わたしたちのため、このわたしのために祈られたのではないでしょうか。その当時、イエスさまを十字架に送った人たちは、いわゆる悪人ではなかったのです。扇動した人たちも、扇動されてイエスさまを十字架に送った人たちも、敬虔のユダヤ教徒たちでした。彼らの多くは、律法の教えを守り、熱心に信心深く生活していた人たちです。それは、言うなればわたしたちに他なりません。しかし、自分たちは掟を守っているという思い込みが、社会のなかに分断を生み出していることに気が付きませんでした。さらには、無意識に、律法を守れない人たちを軽蔑し、見下し、罪人呼ばわりするようになっていました。この発想とあり方は、現代のわたしたちそのものではないでしょうか。わたしたちが敬虔にミサに参加し、祈っている。しかし、その傍らで、何万という人たちが飢え死にしていることが同時並行で起こっているという現実に、わたしたちはなかなか気づかないし、その現実を見つめることも難しいのです。

日本では、殺生を仏の教えに反することとして、戒めてきました。ですから、殺生に関わらなければならない人は救われないと言われてきました。親鸞は、「海、川に網をひき、釣りをして、世を渡るものも、野山に、猪をかり、鳥をとりて、いのちをつなぐともがらも、商いをもし、田畠をつくりてすぐるひとも、ただ同じことなり(歎異抄)」、「さまざまなものは、みな、いし、かわら、つぶてのごとくなるわれらなり(唯信鈔文意)」と述べ、生活のために殺生しなければならない猟師やそれを売り買いする商人、また田畑を耕すことで、虫、生き物を殺さなければならない農民、武士などは、仏の救いから排除されているとされていました。親鸞は、そのような当時の仏教のあり方に対して、異議申し立てをし、仏の救いはまさにそのような人たちのためであることを説いていかれました。生きとし生けるものは誰もが、他のいのちを口にすることなしには生きてはいけない存在です。しかしながら、その事実に目を塞いでしまうわたしがそこにいます。だからイエスさまは、「彼らをおゆるしください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈らずにはおられなかったのです。そして、イエスさまは、そのようなわたしたち人類を救いの目当てとされたのです。イエスさまの救いは、生きとし生けるすべてのもの、すべての人に及んでいます。このようないのちの感覚、いのちへの礼のようなものこそ、イエスさまのいわれる霊の感覚であり、すべてのいのちがイエスさまのいのちと繋がっているという感覚です。わたしたちはイエスさまなしでは生きていくことは出来ません。イエスさまを拒否することは、いのちを拒否することです。イエスさまを拒否する、背を向けるということは、何も教会に行かないとか、キリスト者でないというようなことではありません。イエスさまを拒否するということは、わたしたち人間が、この世界に分別を持ち込んで、分断を生じさせていること、それが肉の思いです。キリスト教のなかにもそのような危険、誘惑が内包されています。「教会以外に救いなし」と教え、教会の内と外という分断を作り出してきたのは、教会当事者です。また、教会のなかでも、熱心な信者とそうでない信者とか、色んな分断を作り出しているのもわたしたちです。すべての人の救いのためのイエスさまの教えを、自分のエゴイズムのために、人々を分断させ、区別させてしまったのは、わたしたち人間なのです。イエスさまは、そのわたしたちに、「あなたがたも離れていきたいか」と問われています。さて、わたしたちは何と答えるでしょうか。

2021年08月18日