2026/4/12 4月12日のhomily (鶴山師)

4月12日のhomilyⅠペトロ1:3-9(2026/04/12)

鶴山師

 

昨日、いつものように霊的読書としてバチカンから出される文書を幾つか読んでいたんですが、そのうちの一つはフランシスコ教皇の2022年6月22日に行われた老齢期についての講話でした。その際、ヨハネ福音書の21章15節から23節をもとに、特に18節「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」というみ言葉をもとに講話をされていました。 教皇はこのみ言葉を「あなたは、若いときは、自分で自分のことができるが、年をとると、自分自身や自分の人生の主人ではいられなくなる」と解説します

・わたしは車椅子を使わなければならなくなりました。けれども、そういうものです。それが人生です。年をとると、このような病気になり、そうなったら、それを受け入れなければならないのです。

・イエスの足跡をたどることは、あなたの弱さ、無力さ、他者に頼ること、着替えさせてもらったり、歩かせてもらったりということにさえ、教えられ、かたちづくられていくのだと学ぶことになります。「わたしに従いなさい」(同19節)。イエスに従うことは常に前進することです。体調が良くても、それほど良くなくても、自分で自分のことができても、物理的にできなくても、従うのです。

・自ら率先して動ける時、弱さの時、人を頼る時、別れの時、自らの人生の主人公ではなくなる時に求められるイエスに従うことや約束された愛や正義に、どうしたら依然として誠実でいられるのか?…自らの人生の主人公でなくなることは、簡単なことではありません。  

この講話の中で、これらの言葉が特に印象深い言葉でありました。2022年の連続講話は老齢期に関する講話だったんですが、先ほど挙げた個所を振り返ってみると健康な時も、体が弱くなる時も、いよいよすべてを委ねなければならなくなった時も、イエス様の弟子であるように、という招きであるわけですが、それは同時に人生いつでも苦しみという十字架が付いて回るという事も意味しているなと思ったんです。

イエス様の受難は自分の思いではなく、御父の思いを優先したこと。誇るものがないほどはぎとられることを受け入れることでした。

今日の第二朗読を黙想して心に留まった個所は6-7節「今、しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され」です。

本来、第一ペトロ書は、元々、小アジア、今のトルコ周辺に散在していたキリスト者に向けて書かれたものです。そして試練というのは、手紙の対象者であったキリスト者は迫害を受けたわけではなかったものの、中傷に悩まされていたと言われています。しかしながら、今回、この個所を黙想する中で、私たちは生きている間、様々な試練、特に老齢期に入ると、できなくなったことを認め、苦労しながらも従事した様々な役目を手放すことに悩まなければならないと思いました。でもそのことが受け入れられるのであれば、私たちの信仰は本当の信仰と言えるのではないか、と思ったわけです。

2026年04月25日