2023/05/12 復活節第4主日

復活節第4主日

 聖ヨゼフ修道会 Sr.山本久美子

復活節第4主日は、「良き牧者の主日」とも呼ばれ「良き牧者」をテーマとしています。
牧者とか羊飼いというのは、日本ではあまりなじみがありませんが、聖書の世界ではごく身近なもので、イエスの姿も、よく「良き牧者」のイメージとして描かれています。
それで、今日の福音のように、神、あるいはイエスと私たちの関わりも、よい羊飼い(牧者)と羊の関係にたとえられます。

 今日は、また、「世界召命祈願日」でもあります。一人ひとりにイエスが呼びかけてくださる声、私はどこに呼ばれているのか、今日のこの私にイエスは何を語ってくださっているのかに、耳を傾け、聴き従う恵みを願い合いたいものです。

召命というと、まず司祭や修道者への召し出しのことを思い起こされる方も多いと思いますが、
第2バチカン公会議以降は、広く信徒全体の召命、皆さん、お一人おひとりが、今日の福音の言葉にあるように、主のいのちを受け、しかも豊かに受けるようにと、主が一人ひとりのために呼ばれる道に生きるということを、祈り、選びとるということだと思います。
今日の3つの朗読から、それぞれの召命について考え、味わう機会になればと思います。

まず、第1朗読の使徒言行録では、ペトロが集まってきた人びとに説教し、回心を勧める場面が描かれています。この説教のために、ペトロとヨハネは捕らえられ、議会で取り調べを受けることになるのですが、「そのとき」、ペトロは聖霊に満たされて話した、というのが今日の箇所です。 
そして、ペテロのその話を聞いた人々は、ペテロと使徒たちに、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と聞いています。
ペトロは、イエスが捕らわれた時に3度も「イエスを知らない」と言ってしまいました。しかし、その同じペテロが、ここでは大胆に人々に宣教しているのです。何事が起こったのか、とびっくりさせられますが、こういうことが、一人ひとりに与えられる召命、復活されたイエス・キリストのいのちをいただく体験なのだと思います。
そして、人々の「わたしたちはどうしたらよいのですか」という声は、ここにいる私たちが、今日、出会う人々の声かもしれません。わたしたちは、どのようにその人々に応えていけるでしょうか。

第2朗読のペテロの手紙には、「イエスが十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださった」とあります。イエスは、私たちが命を受けるために、命をかけてくださったと言っています。
イエスこそ、ご自分の召命を生きぬいた人だということではないかと思います。
イエスは神の子だから、何の迷いも葛藤もなかったわけではなく、イエスも、人間として、ご自分の人生をどのような方向にむけて、どのような人々と共に、どのように歩もうとされたのか、様々な葛藤や悩みの果てに選び取られた、それが十字架の道ではなかったでしょうか。イエスは、当時の社会で弱くされた人々、 排除された人々と共に食事をとり、そういう人々に真っ先に神の国への招きが与えられていることを宣言されました。しかし、その道は、世の権力者や価値観に対する大きなチャレンジでした。 結局、イエスは、イエスに反発した人々に陥れられ、結果的に、十字架上で殺されることになりました。つまり、イエスは、十字架への道を「自ら引き受け、背負われた」のでした。 このイエスの決断と選択においてこそ、「神の愛」が表されている、これがペテロの信仰告白です。

ヨハネによる福音では、イエスは、ご自分のことを「よい羊飼い(牧者)」と紹介しています。
一匹一匹に名前をつけ、名前を呼ばれると羊は羊飼いのもとに寄ってくる、羊と羊飼いが寝食を共にし、大切にしている羊のために、羊飼いは自分のいのちをかけて、野獣からの危険と戦ったということです。
この良き羊飼いのイメージに、「いのちをかける」、「知っている」、「愛する」などの親しさを示す用語が
用いられています。特に「いのちをかける」とは、イエスが全く自由に死におもむいていくことを意味していると思います。イエスと父なる神のつながりのように、イエスと羊の間の愛故に、イエスはご自分のいのちをかけるのです。 十字架につけられることさえいとわれなかったイエスの愛に、私たち一人ひとりの
救いがあるのです。

私事で恐縮ですが、わたしは、今日の福音の続きのヨハネ10章の18節「 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。わたしは自分でそれを捨てる。」というイエスのみ言葉から、修道生活への召命の確信をいただきました。人間ですから、100%とは言えないかもしれませんが、99.9%くらいの確信をいただいたと思っています。それまで心の中に広がっていたモヤモヤして迷いや恐れ、疑い、自信のなさが一掃され、人間的に見れば八方塞の状況の中でも、この道が、私にとっていのちの道、豊かにイエスのいのちをいただく道だと信じられるようになりました。人間的な弱さや欠点がなくなったわけではなく、弱いままの私でしたが、どんなことが起こっても、この聖書のみ言葉に立ち返った時、今も、神が示してくださる道だと心の底から信じられます。今日の第1朗読のペテロのように、「その時」、聖霊の促し、働きを体験できます。

私たち一人ひとりに豊かに命を与え、神との交わりの中に招き入れるために、良い羊飼いであるイエスは、限りない愛をもって、今日もわたしたちにいのちを投げ出してくださいます。その主イエスのもとに集められたわたしたちは、その愛に精一杯応えて、「わたしたちはどうしたらよいのですか」と叫ぶ多くの人々に、あるいは、そのように叫ぶ自分の心の声にも、正直に向き合い、勇気をもって、イエスの愛といのちを
分かち合っていけますように、一人ひとりが自分の召命を見つけ、味わい、応えていくことができますように、祈り合いましょう。

2023年05月12日