待降節第4主日 ルカ1章39~45節

待降節第4主日 ルカ1章39~45節

今日の個所は、マリアのエリザベットの訪問として祝われる箇所です。天使の告げを受けたマリアは、従姉のエリザベットも妊娠していることも知らされます。そして、ナザレからはるばるユダヤの山地まで出かけていきます。わたしたちは、この出来事をきれいな物語として読んでしまいますが、現実はそんな簡単なものではありません。エリザベットは高齢で、もう子どもなど産めるような年齢ではありませんでした。マリアは、自分の予期せぬ妊娠を告げられて戸惑うばかりです。一見するとイエスさまを中心にしたマリア、エリザベット、ヨハネの絵画的な出会いが描かれます。しかし、この出会いは問題を抱えた人たちの集まりでした。ある意味で、この2人は当事者同士であったということが分かります。実はこれが、教会の姿を現しているのだといえばいいと思います。

第2バチカン公会議を境に、教会は位階制度中心の教会から、交わりの教会へと焦点が移っていきました。それまでは、教皇を頂点とした組織としての教会、神秘体としての教会が強調されてきたと思います。しかし、現実の生きた教会は、位階制度を中心とした組織としての完璧な美しい教会などではなく、生きたいのちが触れ合い、あるときはぶつかり合う、交わりとしての教会であるということだと思います。人間の集まりである限り、選ばれた聖なる人たちの集まりではなく、罪びとの集まりであり、お互いの弱さや限界を抱えた人間同士の集まりあることに何ら変わりはありません。それは、つまり問題を抱えた人間の集まりであることを意味しています。それでは、教会としての存在意義は何でしょうか。その意義が、今日の福音で描かれているように思います。それは、ひとつは当事者の集まりであるということだと言えるのではないかと思います。

多くの人たちは、キリスト教や教会に人生の救いや問題に対する答えを求めます。また、この宗教を信じれば問題が解決し、人生に安らぎが得られるというふうに考え、またそのように期待しています。もちろん、ある意味ではそうだと思いますが、それは必ずしも健全な宗教の役割ではないように思います。宗ということばは、真実、真理を意味しているといわれます。ですから、宗教の本来の役割は、人々に真実を明らかにしていくことだといえます。マリアは3か月ほどエリザベットのところに滞在して帰っていったと書かれています。マリアとエリザベットは、当事者同士として、自分たちの抱えている状況や課題を毎日分かち合ったことでしょう。それで問題は解決したのでしょうか。答えは“いいえ”です。望まない妊娠をしたマリアの立場は何も改善されることもなく、エリザベットの状況も何も変わったわけではありません。答えは出なかったわけです。ここから言えることは、キリスト教や教会に答えや人間的な救いを求めてもダメなことがわかります。そういうと、もともこもないと言われるかもしれません。それでは、2人は3か月間、毎日生活をともにして分かち合って、やっぱり自分たちはどうしようもないと言って肩を落として帰っていったのかというとそうではないと思います。2人は、お互いの問題について腹を割って話していくことで、真実を受け入れていったのではないでしょうか。マリアは望まない妊娠をしたという事実を受け入れ、エリザベットも超高齢妊娠という事実を受け入れて、明日に向かって歩き始めたのだと思います。真実とは何かというと、それはわたしたちそれぞれの身に起こっている“こと”です。

わたしたちは苦しいとき、自分でどうすることもできないとき、その解決を求めて、またその答えを探して宗教に助けを求めます。しかし、宗教は必ずしもわたしたちの望むような答えを与えてくれることはありません。むしろ、わたしたちの望む答えを出してくれるとしたら、その宗教には注意しなければなりません。宗教は、わたしたちに真実を明らかにするものです。わたしたちの苦しみの多くは、病でもわたしが抱えている問題でもないことがあります。その多くは、わたしが自分の身に起こっている現実を受け入れられないことからくる苦しみです。病人が、自分が病気であることを受け入れようとしないのであれば、病気の治療を始めることすらできないのと同じです。そして、その状況は当事者同士で話し合い、分かち合っていくことで、大きく動いていくことがあります。その一方で、当事者でない人間は、当事者の相手のことを分かっているつもりになってみても、所詮、相手のことを理解することなど不可能なのだということを知っておくことが必要です。むしろ、相手のことを自分は理解できるとか、相手の身になれると安易に思うことの方が問題で、河合隼雄も「人の心がいかにわからないかということを、確信している」ことが人間理解のための前提であると言っています。だから、できれば当事者同士で苦しみや問題を分かち合うこと、そして、教える人という立場ではなく、そこに同伴する人の存在が大切になってくるのだと思います。マリアとエリザベットの間には、洗礼者ヨハネが、そしてわたしたちの人生の光であるイエスさまがおられました。イエスさまという光なしの話し合い、分かち合いは、ただの愚痴の言い合いか傷のなめ合いに終わってしまいます。教会に役割があるとしたら、ひとつはこのイエスさまを中心とした当事者の分かち合いの場になるということではないでしょうか。いろんな人がいろんな意見をもっていていいのですが、その持論を戦い合わせるような議論は、所詮はわたしの正義のぶつかり合いとなり、傷つけあうだけで、教会の姿ではないように思います。

宗教を信じるということで、わたしの苦しみが取り去られるということではなく、イエスさまの光を通してわたしの身に起こっている現実をわたしが受け入れていけるようになるということだと思います。そして、そのことを通して、状況が動いていくのだと言えばいいでしょう。現実をわたしたちに明らかにすることが宗教の役割です。わたしたちはイエスさまという光の下に、自分というものを明らかに見させてくださるように祈りましょう。宗教というものは信じて聞けば、答えが見つかるというものではありません。むしろ、聞けば聞くほど、真実を通して自分というものが新たに問い直されていくということだと思います。それが、生きていくということであり、わたしたちは日々前進していくことにもなるのです。

2021年12月15日