《受難の主日(枝の日)

《受難の主日(枝の日)

ユダヤ人たちは、イエス様が“神の子”であると信じることができませんでした。彼らにとって、“神の子”とは十字架から降りて自分をすくうことのできるものであり、十字架はイエスが“神の子”でないことの明白な証拠なのです。

ピラトの尋問に答えた後、ずっと沈黙を続けていたイエス様は、息を引き取る直前、“エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ”と叫び声を上げます。神を信頼して、全て委ね、苦しみに耐えたイエス様は、それに対する神の答えを求めます。

祭司長たちは、神の答えは、イエス様を十字架から降ろすことだと考えています。苦しみが除かれることが、“救い”だと考える人々には、“エリ、エリ、”というイエス様の叫びが、預言者エリヤを呼ぶ声に聞こえます。

エリヤは、終末にメシアに先駆がけて、現れると期待されていた預言者です。しかし、人々が待ってもエリヤは現れません。神様は、ついにイエスを十字架から降ろしはしませんでした。イエス様は、死なない“神の子”ではなく、死んで復活する“神の子”です。

イエス様の死の後に起こるさまざまの不思議な出来事は、終末の到来を知らせるものです。イエス様をののしる人々とは対照的に、イエス様の死の場面を正面から見ていた人がました。それは、百人隊長でした。その彼は、“まことに、この方は神の子だった”とイエス様への信仰を言い表します。

別の言葉では「この方がイエス・キリスト、わたしの救い主」という信仰告白をしたのです。ユダヤ人ではない百人隊長は、イエス様が、“神の子”であることを理解しました。このように私たちも神様が、十字架を通して語る言葉を聞くようにと招かれています。

イエス様の犠牲を通して、私たちは永遠の命を頂き、永遠に生きることが、今日の百人隊長のように改心すること、救いなのです。

そして、わたしたちの考えをはるかにこえたキリストの十字架の愛にふれて、神の国、神の愛、を力強く述べ伝えることが出来ますように、特にミサの中で恵みを願いましょう。

復活祭までの一週間をよりよく過ごし、復活の真の意味を悟り、恵みいっぱいで、イエス様とともに復活することができますように・・・

2021年03月27日