2022/01/09 主の洗礼の勧めのことば(北村師)

主の洗礼 ルカ3章15~16,21~22節

ルカ福音書における主の洗礼の記述の特徴は、洗礼者ヨハネはすでに投獄されているので(3:20)、イエスさまの洗礼は過去の出来事の思い出として描かれている点です。その記述は非常にシンプルです。そしてイエスさまの洗礼の思い出のあとに、イエスの系図が描かれていきます(3:23~38)。マタイ福音書では冒頭に系図が置かれているのに対し、ルカではイエスさまの一連の誕生物語のあとに系図が置かれています。それで誕生物語は元々存在せず後代の加筆であると、主張する聖書学者たちもいます。そこでルカの系図とマタイの系図の違いを見てみるとその意図が見えてきます。マタイの系図は、ヨゼフの系図でアブラハムを起源としています。ですからイエスさまはユダヤ人という一民族の枠組みのなかに誕生し、ユダヤ人を通して人類に救いが広がっていくという視点で描かれます。しかしルカの系図は人類の系図で、アダムを通して神にまで遡ります。それによってイエスさまはユダヤ人という枠組みからではなく、初めから人類の救い主であることが強調されます。実はルカの誕生物語は、イエスさまはユダヤ教という境遇のなかに誕生したとしても、ヨゼフともマリアとも血の繋がりがない、つまりユダヤ人としてではなく「人類」として誕生されたのだということを言おうとしているのだということなのです。ですからイエスさまはユダヤ人としてではなく、アダムの血統としてその子孫としてでもなく、神によって「人類の代表」として誕生したのだと言えるでしょう。その点からイエスさまの洗礼の箇所を読み直していきたいと思います。

「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると」という記述から始まります。ここで、「イエス『も』」と書くことで民衆とイエスさまが並列に描かれています。ここからもイエスさまは、人類の代表として洗礼を受けられたのだということが分かります。そこから分かることは、「イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降ってきた。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた」という出来事は、民衆、つまり全人類にも起こっている出来事であるということです。それでは、その中身を詳しく見ていきましょう。

ここで「わたしの心に適う者」と訳されている言葉を聞くと、わたしたちはイエスさまの救い主としての適性が言われているんだという意味に捉えてしまいます。しかし原文は「わたしはあなたを喜ぶ」とも、さらに「わたしはお前を生んだ(詩編2:7)」とも訳せる箇所です。イエスさまは救い主として相応しいからとか、適性があるからとか、資格があるからというような意味ではなく、イエスさまは何であっても何でなくても関係なく神さまの喜びであるということなのです。それはまさに親が我が子を自分の喜びとするその感覚です。そしてヨハネ福音書では全人類について、「この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである(1:13)」として、全人類が、つまりわたしは神から生まれたものだということを明言します。神から生まれたのですから、わたしたちは神の子と言われます。人間の考え得るなかでは、生むものと生まれるものとの関係は親と子と言われますから、神が生む場合、生まれたものは神の子となるわけです。イエスさまの洗礼の記憶のなかで、イエスさまは「あなたはわたしの愛する子」と言われておられるわけですから、神から生まれたわたしたちも神の子であり、神の喜びであるということになります。ですからこのことばはイエスさまだけにではなく、わたしたち全人類、そしてわたし自身に宛てられているということです。これはエフェソ書で言われていることと同じです。「わたしたちの主イエス・キリストの父である神はほめたたえられますように…天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのないものにしょうと、キリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子としようと…前もってお定めになったのです(1:3~5)」。わたしたち全人類は天地創造の前に、イエスさまにおいて神の子として定められていたということが述べられています。洗礼のときにではなく、天地創造に前、つまり永遠においてわたしたちは「すでに神の子なのです(Ⅰヨハネ3:2)」。聖書のなかで度々出てくる「選ぶ」という言葉は、イエスさまの洗礼のときの「適う者」という言葉のように、多くのものがいてそのなかから相応しいものが選ばれたというように捉えがちです。しかし「選ぶ」ということは、何かを排除し何かを区別して、それ以外のものを取捨選択するという意味ではなく、「生む」という言葉のもっているニュアンスのように無条件で行われるその行為自体を現わします。つまり「選ぶ」という言葉は、「愛する」という言葉と同義語であるということです。ですから、わたしたち全人類は人類であるということにおいて神から生まれ、すでに神から選ばれ愛されているということです。

ですから、わたしたちが洗礼を受けるということは、何かから特別選び取られるというものではなく、救われるものの集団に入るという意味でもなく、ただイエスさまが洗礼のときに聞かれた声、「あなたはわたしの愛する子、あなたはわたしの喜び。わたしはあなたを生んだ」という声を聞くことに他なりません。洗礼によって神の子になるのではなく、洗礼のときにわたしたちの本来の姿が明らかにされるのだと言えばいいでしょう。今日、イエスの洗礼の祝日にあたり、改めてわたしたち人類の、そしてわたしの本来の姿-それが召命というものですが-がわたしのなかで明らかにされていく恵みを願いましょう。

2022年01月08日