年間第31主日 マルコ12章28~34節(北村師)

年間第31主日 マルコ12章28~34節

今日の箇所は、エルサレムの神殿で、当時の宗教的指導者である律法学者との対話にあたる箇所です。そこで、モーセの律法のなかで何が一番大切かということが問題になります。というのは、当時、モーセの律法は細かく細分された613の項目に分かれていました。それで、律法学者の間では、どれが一番大切な掟かという論争がなされていたようです。そこで、今日の直前の復活論争について、イエスさまが立派な答えをなさったのを見て、律法学者が真摯に律法について尋ねるということになっています。それに対して、イエスさまは、ユダヤ教の基本的な信仰告白である「シェマ」の最初の部分(申6:4~5)とレビ記(19:18)から、神への愛と隣人愛の掟をお答えになります。それに対して、律法学者は適当な受け答えをして、「あなたは、神の国から遠くない」と言われます。キリスト教のなかで、神への愛と隣人愛は、キリスト教の教えであるかのように言われ、またそれを実践するように教えられてきました。しかし、今日の箇所を読む限り、イエスさまはモーセの律法は、神への愛と隣人愛に要約されると言われたのであって、これがわたしの掟であると言われたわけではありません。イエスさまご自身が、この2つを律法の要約であると認めた律法学者に対して、「あなたは、神の国から遠くない」と言われましたが、遠くないということは近くもない、まして神の国に入れると言われたわけではありません。しかし、キリスト教のなかで、この2つの掟が、キリスト教の掟であるとか、黄金律であると言ったことが平気で言われています。このような、初歩的な間違いがどうして起こったのでしょうか。

イエスさまは、律法で「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられてきたイスラエルの人たちに、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」天の父の完全性を示し、敵への愛を説かれたところに、律法に見られない新しさがありました(マタイ5:43~48)。そもそも人間は、自分を中心にして、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人などという区別、差別を作って生きています。それに対してイエスさまは、善人と悪人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人といった区別、差別をしない一切平等を説かれました。しかし、わたしたち人間は、この神さまの本質である愛の完全性を受け入れることが非常に難しいのです。イエスさまが、誰も区別、差別されないということは、簡単にいうと、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人も、わたしを愛しておられるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、自分が努力をして、一生懸命働いて、熱心に教会活動をして、真面目にミサに行っている。だから、イエスさまに受け入れられ愛されると思っている。しかし、イエスさまは、努力もせず、頑張りもせず、だらしなく、堕落しているとわたしが軽蔑しているあの人も、わたしを愛されるのと同じように愛しておられるということです。わたしたちは、救われたいとか、天国に行きたいと思っているかもしれません。しかし、わたしが考えている天国は、わたしの敵や罪人、堕落しただらしない人がいないところが天国だと思っているのです。つまり、わたしが救われたいと思うとき、わたしが嫌いなあの人、わたしが憎んでいるかの人は救ってほしいと思っていないということなのです。そのような人たちが天国に入るのは、わたしはゆるせないし、嫌なのです。それが、どこまでもいっても自分本位である、わたしという人間の惨めな本性なのです。しかし、イエスさまは、「悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しいものにも正しくないものにも雨を降らせる」と言われるのです。それが、神さまの完全性です。失敗しないとか完璧な人みたいに、上を目指すという意味ではないのです。わたしたちは、そのようなイエスさまのいつくしみ、愛の完全性を理解できずに、背を向けて生きることしかできないというのが現実なのです。わたしたちが、たとえ隣人を愛すると言っても、「敵を愛しなさい」と言われたイエスさまにことばを聞いて、わたしがその隣人の境界、枠を少しばかり広げることでもやっとなのです。わたしたちの言う隣人愛は、わたしの考えている境界を広げていくだけであって、それはどこまでいっても神さまの愛の完全性とは質的に異なったものでしかありません。神さまは、そのことを分かっておられましたから「自分を愛するように隣人を愛しなさい」としか教えられなかったわけです。わたしたち人間が愛するとき、自分を抜きにして愛することは不可能だからです。仏教の世界では、仏の愛を大慈悲と言いますが、人間の愛は小慈小悲と言われます。人間はどこまでいっても、自分というものを抜きにして愛することはできない存在であるということなのです。そのことを知らずして、隣人愛を実践しましょうと平気で言うことがいかにおこがましいかということなのです。自分が隣人愛を実践していると思っていることこそが、実は自分を愛していることに他ならないからです。ですから、神への愛と隣人愛を律法の中心であると答えた律法学者に対して、イエスさまは「あなたは神の国から遠くない」、でも「近くもない」と言われたのです。つまり、隣人と敵、悪人と善人、正しい人と正しくない人、ユダヤ人と異邦人というような区別、差別を作っているわたし自身の枠が破られない限り、神の国には入れないと言われたのです。では、どうすればそのようなことが可能になるのでしょうか。

 そのためには、わたしたちが、イエスさまの何ものをも区別しないその愛にまず触れること、イエスさまに聞くことであると言わざるを得ないと思います。どこまでいっても愛せない人間の弱さというか、人間の性に涙し、救いの計画を起こし、人間となってこの世界に来られたイエスさまが、先ずわたしたちを愛してくださいました。しかし、それは単に一方的に、無償でわたしたち人類をあわれみ、愛するだけでは終わらず、愛することが出来ない人間が愛するものとなるまで変容するところまで及びます。これこそ、愛は愛されることによってしか完成しないということを知った上での、神さまの壮大な救いのご計画であると言えるでしょう。それは、わたしたちがイエスさまを愛することによってではなく、先ずイエスさまが、わたしたちを愛するという働きによってなされたものなのです。わたしたちは、わたしがイエスさまを信じることによって救われると思っているかもしれません。しかし、それだけなら、わたしがイエスさまを信じるというわたしの心を確固たるものとしようとしただけであり、そのようなわたしの心はいろいろな状況のなかで、いつどのように変わってしまうか分かりません。わたしの信念を強くするとか、わたしの疑いがなくなることが信仰ではないのです。信仰がそれだけなら、結局わたしの心の問題にすぎません。そうではなく、イエスさまがわたしを愛されることで、わたしのなかに今度はわたしがイエスさまを愛したいという願いを呼び起こし、わたしのうちで愛してくださることによって、愛は愛されて完成されるのです。だから、わたしを愛されるのはイエスさまであり、わたしのなかでイエスさまを愛するようにしてくださるのもイエスさまであるということなのです。それが、可能になるのが、最後の晩餐の席で弟子たちを極みまで愛し、十字架の上で自分のいのちまで与え尽くされるイエスさまの愛、聖霊がわたしたちのうちの恵みとして注がれることによってのみ、ということなのです。信仰は、この愛を信じることに他なりません。ですから信仰はわたしの心の持ち方ではなく、信仰自体がイエスさまの恵みなのです。わたしたち人間ができることは何もないのです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハネ13:34)」と言って、わたしたちにご自分の愛を与え、新しい掟を与えてくださった、そのイエスさまの愛がわたしに届いていることを、わたしは信じさせて頂くことしかないのです。そして、信じさせて頂けるとしたら、それもイエスさまの愛の働きに他ならないのです。

2021年10月28日