年間第32主日 マルコ12章38~44節(北村師)

年間第32主日 マルコ12章38~44節

今日の福音の箇所は、エルサレムの神殿での出来事です。たくさん献金しましようとかそういう話ではありません。先週、律法で最も大切な掟についての話がありました。それで、神への愛と隣人愛について話されました。今日の箇所はそれに続く箇所として、愛の特徴について話すことに意図があったのだと思われます。

エルサレムの神殿にはファリサイ派の人々や律法学者が集まっていました。彼らは律法の定めに従って、十分の一の献金をきちんとしていたと思われます。大勢の金持ちが、自分の収入の十分の一を献金するのと、貧しい人が自分の生活費の十分の一を献金するのとは同じではありません。ここに出てくるやもめの持ち金は1クァドランスで、1クァドランスは150円ぐらいですから、律法に従えば、彼女は15円献金すればよかったわけです。おそらく、1クァドランスは、彼女のその日の生活費だったのでしょう。彼女はそれを全部、献金します。そうすると、わたしたちは、それでは彼女はその日の生活はどうなるのだろうと心配しますが、そのようなことを考える必要はありません。これは、言うなればイエスさまのたとえ話のようなものです。わたしたちが同じように、すべてを捨ててイエスさまに従うことようにと解釈する必要はありません。

先週の箇所で、神への愛と隣人愛ということが話されました。そこで、わたしたちはどこまでいっても、わたしというものを抜きにして、わたしは愛することはできないということをお話ししました。だからこそ、神の愛が恵みとしてわたしたちに注がれる必要があるということを申し上げました。キリスト教のなかで、もうひとつの極端な考え方があります。それは、キリスト教の愛として使われるアガペーを間違って捉えたもので、相手のために自分をまったく犠牲にする極めて自己犠牲的な愛がキリスト教の愛であるという考え方です。純粋な愛は、自分のことは何も考えず、一切見返りを求めず、一切を他人のために犠牲にしていくことであると言います。もっともな分かりやすい解釈でしょうが、それは一方通行の愛となり、極めて不健全な愛になってしまいます。わたしたちは、イエスさまの愛を自己犠牲として説明し、このやもめは自分のすべてを捧げた、だからわたしたちもすべてをイエスさまにお捧げしましょう、と説教されがちです。そもそも、自分のすべてを捧げるなどということはできもしないのに、もっともらしい綺麗ごとが平気で言われています。

このやもめは、律法に従って自分の生活費の十分の一を献金すればそれでよかったはずです。それなのに、どうして彼女は自分の生活費全部を献金してしまったのでしょうか。それは、彼女がそうしたかったからではないでしょうか。ファリサイ人のように、律法や掟を守っていればそれでよかったでしょう。でも、彼女は生活費の全部を献金したくなったということだと思います。律法や掟に従っているだけなら、生活費の全部を捧げたいなどとは思いもしないでしょう。では、どうしてでしょうか。それは、彼女が一瞬であったとしても、神さまの愛に触れたからではないでしょうか。何があったのかは分かりません。普通は、誰も生活費の全部を献金したいなどと思いません。彼女を突き動かしたのは、感謝でしょう。全部献金してしまいたくなるほど、ありがたいと思うようなことがあったからではないでしょうか。それは、まさしく「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して(Ⅰヨハネ4:10)」くださったことを体験したからではないでしょうか。“愛は愛を呼ぶ”ということばがあるように、神さまの愛を体験した人は、たとえわたしには何もできなくても、何かしたくなります。もちろん、神さまはわたしたちに愛を要求されるようなことはなさいません。しかし、神さまの本質は愛そのものですから、人間を一方的に限りなく愛してそれだけで満たされるわけではありません。愛は、自分が愛した同じ愛で愛されることを求めます。神さまの限りない愛に対しても、少しなりともその愛をわたしたちが返すことによって、愛は完成し、愛の神さまは満たされるのです。愛は、本質的に相互的なものであって、一方通行の犠牲的な愛だけでは、それがどんなに美しく見えても、ストーカー的な病んだ愛に他なりません。

キリスト教のなかに、このような病んだ愛の理解が結構広まっており、一方的で犠牲的に愛することが神の愛の特徴だとか、神の愛を一方的にだけ受けることが強調された時代も長く続きました。しかし、愛は、愛するものとその愛を受けとるものがあってはじめて成立するもので、愛するだけの愛は一方通行で、上から目線の自分勝手な愛となり、歪んだ病的な愛で、それは結局エゴイズムになってしまいます。

まことの愛に徹して生きようとすると自分というものも突き抜けて、相互愛となっていくのだろうと思います。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15:12~13)」。友のためにいのちを捨てるというのは、一方的な自己犠牲の愛ではなく、友情というお互いの関りのなかでなされる相互愛なのです。しかし、そこには、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われるイエスさまの愛が先にあります。「友のために自分のいのちを捨てること」は、まさにイエスさまの愛し方であり、「わたしがあなたがたを愛したように」と言われることの内実です。そのような愛に触れたものは、自分も何かしたくなるのです。それは、友人として当たり前のことなのです。しかし、人間のそのような気持ちは、必ずしも永続するものではないことも知らなければなりません。

このような相互愛自体は、お互いに大切にし合うこと、支え合うこと、尊敬し合うことであり、実はわたしたちが聖書を読まなくても普段の生活ですでに生きている平凡なことなのです。しかし、それは平凡なことですが、同時にまったくの非凡さを要求するところまで深められていく可能性をもっています。相互愛は「わたしがあなたがたを愛したように」、また「友のために自分のいのちを捨てる」と言われるところまでに深められていく可能性を秘めています。自分のために神を愛するとか、自分と同じように隣人を愛するというような神への愛と隣人愛の掟としてではなく、神さまのダイナミックな愛の交わり、動きにまで高められていくことが出来ます。

この貧しいやもめは、このイエスさまの愛、神さまの愛の本質を体験したのではないでしょうか。だから、たとえ貧しくてもどんなに些細なものであったとしても、自分のすべてをもって神さまの愛に応えたいと思ったのでしょう。問題は量ではなく質です。一滴の水は、たとえ一滴であっても、大海の水と同じ水であることに変わりはありません。実は、わたしたちはその一滴の水、神の愛、聖霊を夫々の魂のうちにすでに頂いているのではないでしょうか。わたしたちのうちにイエスさまと同じ愛が注がれ、同じ愛の川が流れているのです。しかし、わたしたち人間の側の愛の体験である限り、その体験は絶対的なものではなく、過ぎ去ってゆくもの、持続しないものであり、人間の側の愛の応答である限り、移ろいやすく、あえなく崩れ去ってしまうものであることを心に留めておく必要があります。それが人間のものである限り、どれほど堅固にしたつもりでも、はかなく崩れ去っていく砂のお城のようなものでしかありません。イエスさまの愛のみが真実であり、そこにのみ信仰の確実さがあるのだということを意識しなければならないと思います。わたしが愛したのではなく、イエスさまが愛されたのです。地金のわたしのなかには、イエスさまを、人々を愛することが出来るものは何もないのです。あるとしたら、恵みとして与えられたイエスさまの愛に他なりません。そして、その愛は愛し愛されるという動きそのものなのですから。

2021年11月04日