四旬節第3主日 ヨハネ4章5~42節

「四旬節第3主日 ヨハネ4章5~42節」

今日の福音はヨハネによる福音で、イエスさまとサマリアの女との出会いの個所が朗読されています。短い朗読と長い朗読がありますが、今日は長い朗読をじっくりと味わってみてください。朗読の指示は4章5節からになっていますが、実はイエスさまとこのサマリアの女との出会いについて味わうために、非常に大切な言葉が4章4節に書かれています。「しかし、サマリアを通らなければならなかった」という箇所です。

通常、ユダヤ人はサマリア人を見下し、敵対し、差別していましたから、ガリラヤからエルサレムに行くとき、わざわざ遠回りをしてサマリアを通らないようにしていました。ユダヤ人であるイエスさまも、普通ならサマリアを通らないコースを取られるのが当たりまえでした。しかし、ヨハネ福音書ではあえて、「サマリアを通らなければならなかった」と述べています。どうしてでしょうか。それはこのサマリアの女がどのような人物であったかということと関係していると思われます。サマリアの女は昼頃に井戸に水を汲みに来ます。普通水汲みは熱い時間帯を避けて、涼しい朝夕に行われていました。井戸端会議という言い方があるように、水汲みは地域の人々の交流の場でもあったわけです。彼女があえて昼頃に水を汲みに来るということは、人目を忍んでということがあったことが分かります。

本文を読み進めていくと、イエスさまは彼女に「あなたは5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」と彼女の事情をズバリ言い当てられます。おそらくいろいろな事情があったのでしょうが、彼女はサマリア人の村の中でも特殊な事情を抱えている女として、他の人から見下され、差別されていたのでしょう。ユダヤ人はサマリア人を差別し、サマリア人はこの女を差別するという負の連鎖があったことが見えてきます。

しかし、イエスさまはこのサマリアの女を差別したり、責めたりなさいません。むしろ、あなたの器から水を飲ませてほしいと懇願なさるのです。その時のこの女性の驚きはいかばかりだったでしょうか。彼女の事情をすべて知りながら、それを批判したり、ダメだと決めつけたり、また律法の教えで裁こうとはされません。むしろ、彼女をもはや渇くことがない真のいのちの水へ、つまりイエスさまご自身との出会いに導こうとされます。「その方はどなたですか」、「それは、あなたと話しているこのわたしである」と言い、ご自分をこの女性にあらわされます。

この一連の出来事を読んでいくときに、イエスさまとの出会いがどのようなものであるかが分かります。彼女が「主よ、渇くことがないように、また、ここに汲みに来なくてもいいように、その水をください」というように、彼女の最も心の深みにある渇き、最も深みにある真実なるものへの渇き、全き愛への渇きを呼び起こし、それを満たす者との出会いへと導いていかれます。彼女の抱えていた事情、罪、否定してしまいたいような人生など、そのような彼女を一切否定せず、愛の洪水で覆ってしまわれます。この女性にこのような悲しみ、痛み、苦しみを負わせてしまった。だから、イエスさまは彼女と出会うためにどうしてもサマリアを通らなければならなかったのです。このひとりのサマリアの女と出会うことがイエスさまの切なる望みだったのです。そして、この女はわたしなのです。

そして、このような愛と出会った人は、もはや今までの自分にとどまっていることはできません。彼女の人生をあらわす水瓶をおいて、人々のところへ、福音宣教へと出ていくのです。そして、この女と出会った人々が今度はイエスと出会い、またその出会いの輪が広がっていく様子が描かれています。今日、わたしとの真の出会いに飢え渇いておられるイエスさまのことを思いめぐらしてみましょう。

2020年03月21日