年間第21主日 マタイ16章13~21節(ユン師)

年間第21主日 マタイ16章13~21節

口で「イエスは神の子です」、「あなたを信じます」、と言っても不十分であることを、今日、イエス様は教えています。もちろん、口で自分の信仰を表わすのは大事なことです。しかし、私たちの信仰告白、約束は不完全で、危ない信仰です。

他の箇所でイエスは、「私に向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。私の天の父の御心を行う者だけが入るのである(7:21)」といい、聖イグナチオも「愛は言葉よりも行動で示すべきこと」です、と言いました。

「かの日には、大勢の者が私に『主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ起こなたではありませんか』と言うであろう(7:22)」と言われています。唯一の信仰をさずかったとしても、その生き方にしないならば、何の得があるでしょうか。言葉と行いがひとつになるまで時間が必要です。全ては、時があります。

イエスは、ご自分がメシアであることを誰にも話さないようにと命じられました。なぜでしょう。福音宣教は、弟子たちの使命でもあるのに。

それには、最後の晩餐でのイエスとパトロの話しが、ヒントになると思います。
「イエスは弟子たちに言われた。今夜、あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。するとペトロが、『たとえ、みんながあなたにつまずいても、私は決してつまずきません』と言った。イエスは言われた。『はっきり言っておく。あなたは今夜、鶏が鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう。』(26:31~35)」

それを聞いてペトロは、「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません(26:35)」と言います。弟子たちも皆、同じように相槌を打ったことでしょう。

イエスに着いていくことは、この世で考えられる幸せを手に入れることとは、相いれません。ペトロは鶏が鳴く前に「あんな人は知らない」と三度否定したことに「はっ」と気づき、泣きます。ペトロが、今日もらった鍵は、この世の幸せを手に入れるための鍵ではなく、難しいこの世の難問に答える鍵でもありません。

神様と人、人と人とをつなぐ鍵、人間を死から救う鍵です。これこそこの世の知恵を超える幸せです。人間が神になろうとして、善悪の知識の木の実を食べた時から、人は不幸になったと聖書は教えています。

今でも、人間の力を頼みとして、戦争や、原子力、ひとりの力ある人間、イデオロギーのようなものに頼り、やがて多くの命が脅かされるようになって、人間の力ではどうしようもなることを、私達は罪と呼んでいます。罪とは、神様以外のものに救いがあると信じることから始まります。

人が神に出会い、頂いた鍵を使い、罪によって離れ離れになった世界と人、神との関係を取り戻すために、「はっ」と気付き、私達もイエスに立ち戻ることができます。弟子たちは、自分自身がどれほど信頼できない存在であることを知らなかったのです。だから私たちは、自分の能力、力ではなく、神の御言葉に従って、生きる恵みと、委ねる勇気と謙遜が要求されています。それが、キリスト教でいう救いであると言ったらいいでしょう。

2020年08月28日