2022/01/16 年間第2主日 ヨハネ2章1~11節(北村師)

年間第2主日 ヨハネ2章1~11節

今日はカナの婚礼で、イエスさまが最初のしるしを行われた箇所を朗読します。この箇所は、元々1月6日の主の公現において祝われてきました。主の公現の起源はクリスマスより古く、救い主であるイエスさまが全人類にご自身を現わされた出来事を東方の占星術者の訪問、主の洗礼、カナでの最初のしるしとして祝ってきたことに由来します。ですから今年の年間第2主日は、降誕節の余韻として味わうことができるということをお話ししたいと思います。

さて、今日の場面は婚礼の席上です。聖書のなかで婚礼は特別な意味を持っています。婚礼は喜び、祝いのシンボルで、花婿と花嫁の関係はしばしば神とイスラエルの民との関係にたとえられてきました。そしてここでは、神の国が到来しているシンボルが婚礼というイメージであらわされています。そこでひとつのハプニングが起こります。それは婚礼の席で欠かせないぶどう酒が足りなくなるということです。物語の顛末は、イエスさまがユダヤ人の清めに用いる石の水がめに水を満たし、水をぶどう酒に、しかも最上のぶどう酒に変えたということで宴会の席がしらけることなく無事に終了したということになります。

清めの水がめというシンボルが出てきますが、ユダヤの律法によると、ものごとを聖と汚れとに分けて考えて、聖となるために徹底して汚れを避けることが強調されてきたということがあります。どの民族、宗教にも汚れという考え方がありますが、そもそも汚れという概念は聖という概念を前提としたもので、ものごとを分けるという発想自体が聖と汚れという区別を作り出してきました。ユダヤ教では汚れを避けるということが最重要とされ、聖書のなかでも「ファリサイ派の人々をはじめユダヤ人は皆、昔の人の言い伝えを固く守って、念入りに手を洗ってからでないと食事をせず、また、市場から帰ったときには、身を清めてからでないと食事をしない。そのほか、杯、鉢、銅の器や寝台を洗うことなど、昔から受け継いで固く守っていることがたくさんある(マルコ7:3~4)」と記されています。ですから「ユダヤ人の清めのしきたり」には、多くの水が必要でした。食事の前や帰宅したら手洗いをする、また食物についての禁忌などは清浄規定と言われるもので、衛生という概念がなかった時代、人間が心身の健康を保つための知恵でもあったのです。多くの場合、宗教的な意味を持たせることで人々によりその規定を守らせようとしますが、それが同時に区別、差別を生み出してしまいました。「汚れたものが触れるものは、すべて汚れる(民数記19・22)」と言われているように、宗教的な規定は自分の内にも、自分の外にも区別を作り出してしまいます。ですからユダヤ人は自分が汚れることを極端に恐れ、日に何度も沐浴をすることになります。その沐浴のために、どの家にも石の水がめがあり、水汲みは家族の若い女性の重要な役割であり、朝早いうちにその日使う水を汲みに行っていました。

しかし日に何度も繰り返される沐浴で、人間の外側の汚れを拭い去ることはできても、内側の汚れを拭い去ることはできないことにすぐに気がつきます。しかしそれを毎日延々と繰り返すしかない、これが旧約時代であったということです。つまり人間は、自らの努力や力では清くなれないということです。しかしイエスさまは、カナの婚礼の席で祝宴のために不可欠なぶどう酒が無くなったとき、ユダヤ人が清めのために使う石の水がめに水を満し、それをよいぶどう酒、それも最上のぶどう酒に変えられました。旧約時代、人間はどれだけ自分の力や努力によって自分の汚れを拭おうとも、自力で自らの汚れを拭い去ることはできませんでした。ですから婚礼の席でぶどう酒がない、つまり根本的な喜びがないという状況にあったわけです。自力で自分を清めているという達成感があったファリサイ人たちもいたかもしれませんが、決してこれで清いという確証な何もないわけですから、延々と清めを繰り返すという負の連鎖に陥っていきました。ここで大切なことは、今まで清めのために必要であった石の水がめの水を、イエスさまはぶどう酒に変えてくださったということです。つまりわたしたち人間の力や努力で千年かかってもできなかったことを、イエスさまは一瞬のうちに成し遂げてくださったということです。さらにイエスさまは「外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もない(マルコ7:14)」と言われ、聖と汚れという区分が本来ないものであることを宣言されました。

そもそも聖と汚れという区別を作り出し、それに囚われて自他ともに苦しめているのは人間自身です。イエスさまは「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか。すべて外から人の体に入るものは、人を汚すことができないことが分からないのか。それは人の心に入るのではなく、腹のなかに入り、そして外に出される…人から出てくるものこそ、人を汚す。なかから、つまり人間の心から、悪い思いが出てくる(7:18~20)」と言われ、人間の心を問題にされました。問題なのはわたしたちが自分たちの心のなかに、聖と汚れという区別を作り出し、それが思い、ことば、行いとなって出てくる、ここに人間の苦しみの原因があることを指摘されたということです。わたしたち人間は、自分の力で自分の心をコントロールすることはできません。わたしたちは怒ってはいけないと思っても腹は立ちますし、憎んではいけないと思っても憎しみがわたしの心から湧き上がってきます。わたしたちはそのような自分の心を自分でどうすることも出来ないのです。そのような人間に対して、イエスさまは清めのための水をよいぶどう酒に変えるという最初のしるしを通して、今までの人間が自分の力で自分を清めようとしていたあり方を破棄し、イエスさまがわたしたちを変えてくださる、イエスさまがわたしを根本的に変える働きであることを示してくださったのです。主語がわたしたち人間から、神・イエスさまに根本的に転換されていくのです。わたしたちの悪い心がよい心になるのではありません。イエスさまがわたしに働きかけてくださっていることだけが真実なのです。カナの最初のしるしは、イエスさまだけがわたしたちを変えることができ、救うことができる唯一の救い主であることを人類に現わしたということなのです。これこそが旧約時代から新約に転換していくということなのです。そして、さらにイエスさまによって聖と汚れという区別自体も無効化されていく、ここにイエスさまの福音の新しさ、ダイナミズムがあるのではなないでしょうか。

2022年01月15日