年間第33主日 マルコ13章24~32節(北村師)

年間第33主日 マルコ13章24~32節

マルコ福音書は紀元66年から始まった第1次ユダヤ戦争の頃、ローマで書かれたと言われています。第1次ユダヤ戦争は、当時のユダヤ州の総督がインフラ整備の資金のために、エルサレムの神殿から宝物を持ち出したことが発端となって始まります。ローマ帝国への支配に対して不満をもっていたユダヤ教の過激派グループが反乱を起こし、73年まで争いが続きました。エルサレムのキリスト者共同体は戦乱を避けて、ギリシャのべレアに非難します。マルコ福音書の読み手は、ユダヤ戦争を逃れてきたキリスト教共同体であったと考えられます。

当時のキリスト教は、まだユダヤ教の一派として留まっていました。しかし、ユダヤ人以外の信者も増えて、ユダヤ教の狭い枠組みから脱皮し、世界宗教へと変容を遂げようとしているところでした。彼らは、ユダヤ教の伝統を尊重しながらも、ナザレのイエスをメシアと信じ生活していました。エルサレムは、彼らにとってもイエスさまが十字架の死を遂げられた聖都であり、信仰の拠り所でした。当時の彼らの信仰は、イエスさまがメシアとして再臨し、新しいエルサレムを再興してくださるということでした。ですから、ユダヤ戦争の成り行きを祈るような気持ちで見守っていたのでしょう。そして、自分たちに聞こえてくるユダヤ戦争の惨事を、終末のしるしとして捉えるというのが当時の終末思想でした。

終末思想というのは、当時のユダヤ教のなかに広まっていた考え方で、試練によって浄められたイスラエルの民にメシアが遣わされ、救いがもたらされ,審判が行われて人類の歴史が完成するというものでした。この思想は、キリスト教にも引き継がれました。初代教会では、旧約聖書で預言されていたメシアであるイエスの生涯、死、復活によって終末と救いが始まり、メシア(キリスト)が再臨することで人類の歴史は完成され、神の国が到来する信じられていました。ですから、当時の人々はイエスさまの再臨がすぐにでも起こると考えていました。復活されたイエスさまに出会った弟子たちは、「主よ、イスラエルのために国を立て直してくださるのはこの時ですか(使徒1:6)」と尋ねています。マルコ福音書の読者たちも、ユダヤ戦争、エルサレムの都の惨状などを耳にし、直ぐにでもイエスさまが再臨して、裁きが行われ神の国が到来すると考えていたと思われます。ですから、イエスさまの再臨を期待させる記述が出てきます。しかし、歴史的には、イエスさまが再臨されることはありませんでした。エルサレムの都の陥落以降またローマ帝国によるキリスト教の迫害のなか、キリスト教徒はイエスさまの再臨を再解釈していかなければなりませんでした。

そもそも再臨とか、終末、審判という思想そのものが、ユダヤ教の枠組みのなかの民俗的希望が色濃く反映されたひとつの歴史観であり、それをもって全人類の歴史を理解しようとすること自体限界があると言えます。日本でも末法思想が広まった時代がありました。末法とは、釈迦が説いた教えが正しく実践されている時代が過ぎると、次に教えが形骸化し、やがて人も世も最悪となるという歴史観です。日本では、平安時代末期から末法の時代に入ったと考えられてきました。キリスト教は、今でも終末思想に基づいた歴史観を説いており、その教義にもとづいて人類の歴史やこの世界の開闢や終りを説明しようとしています。しかし、すべてをキリスト教の教義で説明できるわけではありません。アインシュタインの相対性理論によって、人間の時間・空間の概念や理解は人間が作り出したものであり、相対的なものでしかないことが言われました。そこで今日の福音を読むとき、改めて注目するべき点は、人間理解の限界と神のことばの永遠性ということだと思います。「天地は滅びるが、わたしのことばは決して滅びない」といわれていることです。それでは、なぜ“ことば”なのでしょうか。ことばということに注目してみたいと思います。

そもそも、ことばというものは、人間が音声や文字を用いて思想・感情・意志等々を伝達するために用いる記号体系です。ことばは、人類が獲得したひとつのコミュニケーションの手段です。それでは、ことばをもたない人間以外の動物や植物がお互いに、また他の生命体とコミュニケーションを取っていないかというとそうではなく、夫々彼らの感性を使ってコミュニケーションを取っています。そして、絶えず変化していく自然界のなかで、その変化を感じ対応しています。それが、生きるということでしょう。それに対して、人類はことばというものを獲得したがゆえに、生きるという現実を非常に狭く限定してしまっています。どういうことかと言うと、自我というものを中心に据えて、自分の周りに善し悪し、好き嫌い、正しい正しくない、賢い愚か、親しい親しくない、上下、生死、嘘真など、すべてを“ことば”という物差しで区別し、境界を設けていきます。“ことば”でもって、他を認識し、“ことば”でもって自他を区別していくのです。しかし、自然の世界には自我がありませんから、善いも悪いも上下もありません。しかし、人間はことばでもって区別、差別をしますから、それゆえに競争と争いを作り出してしまいました。自然には善いも悪いも上下もありません。人間が、この品種は優良でこちらの品種は劣悪だと決めているだけであって、自然のなかには優劣などありません。自然はお互いに調和しており、そこに善悪、優劣はなく、従って争いや憎しみ、競争もありません。それを決めつけて考えているのは人間であり、すべて人間目線から見た人間の都合なのです。人類はことばを獲得することで、飛躍的に文明を進化させてきました。しかし、自然そのものがもっている主客を分離しない一体性、いのちの調和、言語化できないいのちの平衡や同期、言語化できない現象を切り捨ててきました。その結果、人類の進歩、社会の発展を手に入れましたが、その引き換えに苦悩を引き寄せてしまいました。そして、そのような視点から、人間目線の歴史観や宗教、そして終末思想が生まれてきました。しかし、近年、ことばでもって現実を非常に狭く設定してきたことの歪みがあらわになり、人間の活動の限界、ことばの空洞化、いのちの分断が先鋭化されてきたように思います。ですから、ことばを主体とする人間活動のひとつである宗教にも、限界があると言わざるを得ません。特に、ユダヤ・キリスト教は、ことば(ロゴス)中心の宗教ですが、パウロがすでに「文字は殺しますが、霊は生かします(Ⅱコリ3:6)」と指摘したように、ことばは人を生かしも殺しもするということを、肝に銘じなければならないと思います。生きたイエスさまの福音を、ギリシャ哲学の概念で説明してき教会の試みは、福音を生き生きとさせるものではなく、窒息させてしまったとも言えるでしょう。

神さまは、このような人類の歩みを予見して、自らがことばとなってわたしたちのうちに宿られ、わたしとなられた、それがイエスさまなのです。ことばで自分たちを苦しめている人類に対して、自分がことばとなって、人間のうちに宿り、人間を照らし、解放しようとされたのがイエスさまです。神さまがことばとなることで、ことばにいのちを宿らせ、イエスさまの死と復活という出来事を通して、そのいのちのことばをこの宇宙、全世界に満たされたのです。そして、そのことばをもってわたしたち人間に働きかけ、人間ひとり一人に呼びかけられたという出来事がイエス・キリストという出来事だったのだと言えます。これが、ヨハネ福音書の冒頭で「ことばのうちにはいのちがあった。いのちは人間を照らす光であった。光は暗闇のなかで輝いている。暗闇は光を理解しなかった…ことばは肉となって、わたしたちの間に宿られた」と言われていることでしょう。このことばは永遠のいのちのことばであり、「イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名によって命を受けるためである(ヨハネ20:31)」とあるように、イエスさまの名によって、イエスさまの働きによって、わたしたちは人間のことばの限界を超えた真のいのちの世界に触れさせていただけるようになったのです。そして、このいのちのことばは、決して滅びることがなく、わたしたちを今も絶えず照らし続けている働きなのです。わたしたちは、今その光に覆われているということに他なりません。

2021年11月11日